2008-10-05

拒食症

 妻の躁が始まりました。9月の初めくらいからでしょうか。以前にも躁状態に陥ったときはあるのですが、長くは続きませんでした。その時期は必ず過活動で、Mixiを通じて友達とコンタクトをとったり、新しい友達を見つけたり、日記の更新も頻繁になります。その他は友達に会いに行ったり、家に招いたりが増え始めます。しんどい者同士が集まってお互いの辛さを語り合ったりしています。

 今までの躁状態でしたら、過食も派手になり、それに加えて外遊びも増えるのでお金もかかります。本当に毎日々々「誰に会いに行く、○○子ちゃんと食事に行く」と言い、小遣いをねだって出かけていきます。月に数回なら小遣いを渡してもいいのですが、あまりにも数が増えるとおねだりに釘を刺します。

 それに対して妻はすっかり凹んで黙り込んでしまうのですが、妻の言うとおりにお金を使うと月末まで生活費が持ちません。ただそれだけの事です。妻に意地悪したいのではありません。しかし、妻の凹んだ姿を見ていると、私が悪いことしたような気分になってきます。

 妻の凹んだ姿を見るのが辛いのではなく、私が言われのない罪悪感を抱かされるのが嫌で、ついついお金を渡してしまう事があります。それでなくても現状、家賃と公共料金を払った残り全ては、妻に費やし、妻の口に入り吐瀉物はトイレに流れていきます。

 今回の躁では過食が止んでいるのですが、それは今までにも数回ありました。過去の数回では結婚した時や引っ越した時など、外的環境の変化が妻をそうさせた時ばかりでした。今回は過食が止むと言ったような穏やかな状態ではありません。拒食症に陥ったかのようにも見えます。今回は外的な環境の変化はありませんし、何がきっかけか判りません。

 今回もお金に関しては妻に言い聞かせ、強い目に釘を刺した事がありますが、それはむしろ妻が常々気にしているお金の事を殊更に説教したので、いつものように妻を凹ませただけでした。妻が自分の意志で過食をやめているのではなさそうです。過食したい気持ちが我慢できないほど大きくなったり、辛抱できる程度だったりするみたいです。

 しかし時として私の目には、説教した私への当て付けで拒食によって私を困らせようとしているのか?友達と遊ぶお金のために過食をやめているのか?いつまでたっても無関心な私を本気で振り向かせる為に食を絶ったのか?などと妻の気持ちが汚く見えてなりません。

 「食欲がなくて困ったもんだ。少しだけなら食べられるけど結局吐いちゃうし。」と妻本人が言っているように、食べたくても食べられないようでもあります。今までの妻は一時的にしろ拒食に陥った時はありましたが、本当に短い期間でしたし、今ほど食べない時期はありませんでした。

 過食が止んだうえに、私がいないと食事を摂らずに野菜ジュースを飲んでいるだけと言います。私がいると一緒に食事をするのですが、ご飯とカロリーが高いものは口にしません。食事の後にはやはり吐くので一層やせてきました。今はたぶん30kgくらいだと思います。

 ある本にシベリア抑留された捕虜の体型について、その特徴が書かれていたのですが、妻の体がその通りになっています。妻の嘔吐は胃洗浄に等しいくらい、大量の水を飲んで吐き出します。それを何度も繰り返すので、何も食べてないのと同じなのかもしれません。妻の体型が物語る病状は拒食症そのものです。たとえ吐かないとしても、今の食事量では基礎代謝に必要な量すら摂っていないでしょう。

 妻の幼馴染じみで仲良しだったA子という友達の話になりますが、実は長年妻の善意をむさぼって、妻は都合のいいように利用されてきた事に気がついたと話してくれました。特にA子の結婚式で妻はスピーチをしたそうですが、その後のお礼も挨拶もなかったし、新婚旅行のお土産すら持ってこなかった。そもそもA子の結婚を祝う気などなく、スピーチも嫌々ながら引き受けたような節があったので、その後のA子の礼儀のなさが一層気に食わなかったようです。その事が妻の内に引っかかって思い出すたびに腹立たしくなるそうです。

 結婚式の一件だけを聞くとA子の配慮のなさよりも、妻の恩着せがましさを感じるのですが、二人が幼い時から与える側は妻で、貰う側はA子だった関係が、結婚式の些細なことでも妻にとっては決定的な亀裂になったしまったようです。我慢の限界に来たのだろうと思います。

 妻の携帯メモリーからA子の番号を消したと聞きました。それも今回の拒食と躁を起こした何かのきっかけになったようにも思えます。元来、妻は人を切り捨てる事ができない性格で、それ故に気苦労が人一倍多く、それが病気の原因にもなっています。だからメモリーから消すという事は、妻にとっては大きな事なのかもしれません。

 以前と変わらず1日に3千円は渡しているのですが、一日おきの米代を払わなくて済むので、私の出費感はかなり和らぎましたし、それに過食嘔吐を見なくてすむ事は、私が精神的に楽になりました。今は拒食の方に大きく振り子がふれていますが、そのうちまた過食に戻るでしょうし、今の状態をあまり大きく考えていません。

 私は過食に費やすお金さえ守れたらいいと思っている気がします。過食嘔吐の姿さえ見なければ、妻が何をしてても気にしない、と思っている気がします。たとえ拒食で今以上に痩せ細っていっても、私の危機意識はもしかしたら芽生えないかもしれないと、恐ろしくも思います。

 しかし、もしかしたら過食や拒食側に振れた振り子が、これを期に正常に戻るかもしれないと願うのは、あまりにも大きな期待をかけすぎだと、自重に自重を重ねるのですが、やはり「万に一つの確率でも・・・」とかすかな期待もしてしまいます。

 日々変わらない退廃的な生活の中で、過食の衝動を無理やりに抑えて我慢しているのではなく、自然に強迫的な過食の思いが和らいだ事、その代わりに拒食ではありますが、まったく食べないのではありませんし、妻の症状がガラリと変わったのでしばらくは観察するつもりでいます。

 それよりも大事なのは、私たち二人の食事の献立が増えたり、ゴミ出しをしたり、掃除機をかけたりと身の回りのことに気を配り始めた事です。挙げると他にも色々あるのですが、ただ単に過食嘔吐をやめようとする試みよりも、生活全体が変わりつつあることは、過食嘔吐がどうかなることより大切だと思います。

 しかし生活全体にわたる過活動は拒食症の特徴ともいえます。自然な生活動作ではなく、妻の周りには落ち着きなくバタバタしている雰囲気が付きまとっています。拒食と過食の間をこれからも行ったり来たりするだろうと思いますが、徐々に振れ幅が小さくなっていくだろう、そして食に対する認識が正常になっていくのではないかと思っています。

tag : 夫婦 摂食障害 過食嘔吐 家族 拒食

2008-10-04

心のきれいな人

 きっと心がきれいでまっすぐな人だと思う−−−−妻の事をそう言う人がいます。妻の友達(T)のまた友達(S)。自分の妻をそう言ってくれる人がいる、と私は喜ぶ事ができませんでした。なぜかムカッと来ました。私はなぜかTに対しても良い印象を持っていません。私の心の奥底には、妻への否定感情が泥のように溜まっているから、妻を取り巻く全てか訝しく思えるのでしょうか?

 いくら共感だの受容だの言ったところで、私はどこかで自分を偽っているのでは?と自問するときがあります。

 私の心は何に反応しているのでしょうか?なぜムカついたのでしょうか?「事情を知らない他人が達観したかのような事を簡単に言うな」と思ったのもあります。私が達観したくてもそうなれないもどかしさが、苛立たせた理由かもしれません。

 もしそうであるならば、事情を知らない他人が原因なのではなく、私の中にある理想とのギャップがそもそもの原因で、Sによってそれが刺激されただけだとも思います。結局は私の中に原因があったと気がつきました。

 TはSを『スピリチュアルで私の師匠みたいな人』と言います。そしてどこかの農場で遁世(僧侶ではありませんが)している世捨人で、私にすれば「一人で自由気ままに生きている輩が、偉そうな事を言うな。お前に何が判る!?」みたいな気分にもなります。我ながらこんな自分の姿を醜く見えてなりません。典型的な不幸人の姿です。

 妻はSにカウンセリングみたいな事をしてもらっているのか、電話で誰かと話している場面を見ました。

 −−−−あまり自分を責めないように。大阪の暮らしが合わないのかもしれない。ここの農場で作ったりんごを送ってあげるから騙されたと思って食べてみて。野菜ジュースは買わないで自分で作ったほうがいい。中絶した子供の供養は何時にどちらの方向を向いて手を合わせなさい。−−−−

 そしてこれらの言葉の後に続くのは『きっと良くなるから』。

 妻は今までに電話で話した事を私に教えてくれます。今まで私も同じような事を言ってきましたし、実行してきました。

 −−−−自分を責めてはしんどくなるばかりだよ、何度も諭してきました。田舎の静かな所で暮らそうと、妻が行きたいと言っていた沖縄に2年余り住みました。栄養をバランスよく摂れるようにいろんな食事も作りました。手間をかけて丁寧に作ればきっと食べてもらえると信じて。でも吐き出してしまうからサプリメントを買って飲んでもらいました。いろんな水子のお寺に行って供養してきました。−−−

 良くはなりませんでした。

 Tが信頼するスピリチュアル師匠ですから、妻がその人となりを知らなくても自動的に心酔しました。陳腐な説教は妻が一番嫌い反発するはずなのですが、私の言葉は妻には何も届かないのに、私が言い古した事の繰り返しであってもSが言えば妻は心に留めています。

 −−−−妻の苦しみを一番近くに感じ、共に苦しんでいるのは私だ。お互いに醜態をさらしながらもぶつかり合って、お互いを知り合ってきたのは妻と私だ。今まで一緒に暮らしてきて、いろいろ話し合ってきた。時には間違いもあっただろうし、余計な事もしてきた。

 最善ではないにしても、その場面ではそれが私の判断であったし、後になれば過ちだったと思う事も多いが、人間一般的に後から考えても「やっぱり自分は正しかった」と思える事なんてめったにあるもんじゃない。

 それでもなお、夫婦ってお互いが一番大切で一番に守りあう存在じゃないのか。その一番が私だ。

 りんごを食べたら良くなるとか、農場で製品化している天然水を飲んだら良くなるとか、予想する筋書き通りに良くならない時でも、今の平静を保つことができるか。

 ○○をしても良くならなかった時の落胆が判るか。良くなってもらいたいと願い勧めた事を、してさえもらえなかった時の残念さが判るか。喜んでもらいたくて作った料理を、一品食べてはトイレに行って吐き出し、繰り返し片っ端から徹底的に吐き出された時の気持ちが判るか。私の善意を汚い嘔吐物と一緒に下水に流され、それが毎日毎食何年も繰り返される、身も心も切られるような痛みが判るか。

 私の心から良心が消えていった訳が理解できるか。それでも普通の人間なら善人でいられる事が当たり前なのか。−−−−

 こんな事を言って思い上がりだとは十分に判っています。嫉妬している事もわかっています。妻が私の方を向いていないと感じ、それに腹を立てている事も判っています。妻にとって私が一番であって欲しいし、私が「自分が一番だ」と感じたいのもわかっています。人の賞賛を得たい事も判っています。

 私が苦しんできた事を正当化しようとしている事も判っています。

 心の病から回復するには、「今のままじゃあかん!」と実感する底打ち体験が必要とも聞きましたし、物であれ人であれ『メンター』となる存在が必要とも聞きました。つまり心から信頼できる人や物の存在で、そこから教えられた事を頼りに立ち上がる事が回復になると言う事です。

 もしかすればSがメンターかもしれませんし、そうであるならば妻が信頼を寄せる人なのだから、歓迎するべき事なのは無論、敵視する事はありえないはずです。

 そこまで判っていても、Sが邪魔な存在に思えてなりません。言葉巧みに人の信頼を集めようとする思惑が見えてなりません。見ず知らずの人をあまり悪く言うものではない、とは重々判っています。Sにとっては善意でしょうが、私にとってはそれが下心に思えてなりません。

 なぜSをそう思うかは、単に気に食わない奴と言うだけでなく、私と似通ったある一面を見て、私もそうだからSもそうだ、と断言はできませんが、ある程度は私と似たタイプではないかと思うからです。優しい語り口調で人の警戒心を解くその手段は、実は私も得意とするからです。特に女性に対して、口説き落とすとかモノにする目的でなくても、自分の印象を良くするための常套手段だからです。

 今までに妻の友達に数多く会いましたが、みんな口を揃えて私をいい旦那と言うのです。いい旦那はおろか、本当は汚く卑しい人間でしかありません。一瞬で働く作為や、無意識のうちに自らを虚飾してしまう事を、自分でよくよく判っているからです。だから私をいい旦那などと言う人は「騙されている。単純な奴」と蔑みの気持ちもでてきます。

 しかし確証できないながらも、漠然と私の内側を察知しているのが妻です。だから私の陳腐な説教には頷いてくれなかったのです。

 私が妻と出会った頃は、私は今ほど汚い人間ではなかった気がします。良心も善意も持っていました。無邪気だったのかもしれません。私の内側を知らなかったのかもしれません。しかしそれ故に、人の心を詮索することもありませんでした。単純に私が良いと思うことを妻に行いました。少しでも何かが良くなればと希望する気持ちに邪心はなかったと思います。

 電話カウンセリングの翌日、妻がさっそくミキサーを出して野菜や果物を切っています。しばらくして妻が私を呼びます。「変になった。どうしたらいいの?」私は“そんなもん自分で何とかしろ”と心中思いながら、詰め込みすぎた野菜を取り出し小さく切りなおし、ミキサーに入れました。スイッチを入れると10秒もしないうちにジュースができました。「やっぱりすごーい。もうできた。」と妻は喜んでいますが、私は何も嬉しくありません。“これくらいの事がなぜ判らん?”ため息が出ました。

2008-09-25

自分も底打ちが必要

 私は普通より劣って自制心が弱いのかと思うときがあります。理性のたがなんて簡単に外れます。すこしイライラすれば、すぐにでも私の嫌いな姿が現れます。

 嫌な面ばかりではないと思うのですが、今は徹底的に自分のことが嫌いでなりません。すぐに偉そうぶる。人の言動を邪推する。極端に強い被害者意識。人の目つきや会話の間や微妙な表情や言葉使いで、馬鹿にされていると感じることが多くあります。

 しかしその対象がすべて妻である事が不思議でなりません。妻に対して偉そうな態度をする。妻の言動を邪推する。妻の言動に対して被害妄想を持つ。妻の目つきや非言語的な会話によって馬鹿にされていると感じています。私はよほど妻のことが憎いのでしょう。なぜだかわかりません。

 お互いの私生活に入り込んだ関係になれば、相性の良し悪しは関係ないと思ってきました。だから私は相性なんてものを信じないのですが、妻に限っては悪いと思わざるを得ない時が多くあります。しかし常日頃から険悪な関係ではありません。

 1回しか結婚したことない私には確かなことはいえませんが、恋焦がれた相手も結婚すればただの人になるでしょうし、結婚を間違えたと嘆く相手でも、思い直すようないい面を見つけられるかもしれません。

 相手の一挙手一投足が目障りでイライラさせられるのであれば、そもそも上手くいく結婚生活ではなく、一緒に生活するのはただ苦痛でしかないのかもしれません。しかしそれは相性云々ではなく、些細な事で精神的な不安定に陥る事や、根本的に相手への思いやりがない事に問題がある気がします。

 この人に限って思いやりが持てない、と言うこともあるかもしれませんが、自分の寛容さの限界を越えたからであって、私が思うには、その限界の域を広げたらいいだけ、と言うことです。私と妻の関係で思う事はそれだけです。妻に対してただひたすらに寛容になれたらと思うだけです。

 夫婦の仲が上手くいかない原因のひとつには、自分自身との折り合いがうまくいってない事がある気がします。簡単に言えば自分のことが好きか嫌いか。私の場合は明らかに自分のことが嫌いで、自分のする事いう事に後悔ばかりしています。自分の浅はかさにうんざりする事ばかりです。

 後悔や浅はかさとは、ついイラッとなって、胸にグサッっとくる事を冷淡に言ったり、自己顕示欲が刺激されて嘘の混じった自慢話を始めたり、というパターンばかりです。

 私の問題を考えるとき、『嘘』は非常に重要なポイントです。ただ単なるほら吹きなのではなく、自分自身をも騙してしまう『欺瞞』を意味します。

 人を傷つける事を簡単に言うくせに、私が傷つく事には非常に敏感で、私の思い込みや勘違いかも知れないのに、私を故意に傷つけたと見なして敵意を持つことが多くあります。人の行いを「ついうっかり」と感じる事ができずに悪意を見出してしまいます。

 根本的に自己肯定感が低く、自分で自分を守るすべを知りません。非常に崩れやすい砂城のような心です。崩されないように懸命に守っているのですが、ほんの少しの事でも大きく崩れてしまうので、傷つくことにはどうしても敏感になってしまいます。

 うっかりかすり傷でもつけられたら、意気消沈してしまいます。凹みやすい性格と言う表現がぴったりです。その凹みやすさが鋭い攻撃性にもつながり、でもその攻撃性は明らかな攻撃として表に出るのではなく、私の場合は陰険かつ辛らつな言葉の攻撃か、それができない相手には胸の内でくすぶり続けるだけです。俗に言う根に持つタイプです

 それならそれで打たれ強くなる事を考えたらいいのですが、あくまで現在のままで守り通そうとします。耐震基準を満たさない建物をそのままにして、地震が起きないように祈っているようなものです。そして地震が来た時には地震を恨んでいるのです。

 自分の弱い個所、悪い個所を見つけなければいけません。自分のダメな所を知るのはつらい作業です。しかも知るだけでは直りません。知ることが第一歩なのですが、直るまでには途方もない時間がかかりますし、どうすれば直るかなんて判りません。それができないから今のままで何とかするために、虚勢を張って弱点に決して触れさせないように無駄な努力を重ねます。

 傷つきやすさの背景には、自分の理想とする姿を、あたかも今現在その姿であると錯覚しているからでしょうか?自己愛の背景には現実逃避があるとも言われます。本当の自分の姿があまりにも惨めで情けないから虚像をまとうと説明する本もあります。

 では惨めで情けない本当の自分とはどんな姿でしょうか?たぶん私が「自分のことが嫌い」と思う姿なのでしょう。傲慢で自慢が好きで、ええ格好しいで、被害妄想が強くて、人や物事を悪く受け取るのが好きで、病的なくらいお金に細かい。日ごろの話し言葉に不平不満文句がほとんど。口にするのはネガティブワードと言われる類がほとんどな気がします。

 漠然とした自己否定感や自分のことが嫌いと思う気持ちは、他人を思う気持ちにも転嫁されやすい気がします。自分への悪口が得意な人は、おそらく他人の悪口を言うことも得意なのではないか?と。。。

 ざっと挙げて自分のだめな所は知っているつもりですが、一向に直りません。あらゆる種類の依存症者がその病気から回復するには、底打ち体験と言われる「このままではいかん!」と強く強く実感するタイミングがあるそうですが、自分の性格にしても病気ではないにしろ−−−−病的かも知れませんが−−−−何らかの底打ち体験がないと変わることができないのでしょうか?

 そのタイミング無しには変われないのであれば、変えようとする努力は意味がないのでしょうか?何も努力せず待っているだけでは、底打ち体験は来ない気がしますし、努力だけでは効果がないことも何となく判ります。絶え間ない努力があってこそ底打ち体験がやってくると思います。

 自分を変えようとする努力よりも今の自分を受け入れて、と言う人もいるでしょう。今の自分を許して受け入れる事ができないから、人に対しても許す事ができないのでしょうか?

 今の私を善しとは思えないのに、それを許すとは自堕落としか思えません。自分の自堕落を許す事ができれば、人の自堕落を許せるのでしょうか?

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2008-09-24

「良くできた旦那」と言われるその裏は

 妻の摂食障害に対して、私は何も特別な事はできませんし、何ができるかがわかりません。今までどうやってきたかも判りません。辛いときは妻を蔑んできました恨みもしましたし、嘆きもしました。諦めもしました。自己放棄もしました。

 妻を凍りつかせるような言葉の攻撃は、気を付けているつもりですが、未だに続いていると思います。私は自身の変化も達成感も目安も何もありませんから、5年前と何も変わっていない気がします。この5年間、この気持ちとどう過ごしてきたのかすら判りません。

 荒れていく私、夫婦間における道徳心を失っていったのは私のほうでした。それでも私を見捨てなかったのは妻でした。私は一緒には暮らしていたものの、完全に妻を見捨てていました。私の精神の平静を維持するためには、その目的のために役に立たないものは、価値がないと見なしました。妻の言動に対して私の感情が動かされては、平静が乱されてしまうのです。

 妻が摂食障害である所以、見捨てられ恐怖や依存的性格が私を離さなかった、と言えばその通りかもしれませんが、私の度重なる攻撃に耐え、かつ私に牙を剥き返すことなく、一緒にいたいと望み続けたのは妻の強さだったと思います。

 私が妻に見た漠然とした敵意、蔑みはこれからも感じるかもしれません。しかしそれに囚われる事は少なくなっていくと思います。私は何か特別な事をしたくても、できないほどの無力ですから、時には妻をイラッとさせるでしょうし、蔑みたくなるような愚かさ卑しさを見せるだろうと思います。

 しかし妻の精神性はそれらによって私に諦念を抱く事はないと思っています。妻にはある意味で崇高さを感じる時もあります。そして私は妻のその寛容さによって許されていると感じています。

 私がその許しに安楽するつもりはありませんし、自らの愚鈍さを開き直るわけでもありません。私の内面は色々と手直しが必要ですが、現在を決して否定しないのが妻であると思います。

 妻はよく言います「一緒にいてくれてありがとう。」と。かつての私ならば「その通り。何もかも犠牲にして一緒にいてやっている。礼の言葉だけでは全く足りない。」と、妻の感謝の言葉にすら憤慨していました。しかし今は素直に言えるようになりました。「一緒にいさせてもらってるのは私のほう。」と。

 もし私の存在が感謝に値するのであれば、私をそういう人に変えてくれたのは妻であり、妻には人に寄り添い、人を育てる才能があるように思えます。今の私たちの関係は、5年に及ぶ妻の導きによるものとも思えます。もちろん妻に全てを任せて、私は何もしなかったわけではありません。私も私なりに何かをしてきたつもりでいます。それでもなお、私の不足を補ってきたのは妻だと思っています。

 私は摂食障害を持った妻の救済者のつもりでいた時期がありました。しかし思ったことが思い通りにならない苛立ちと、救済の志を達成できなかった不甲斐なさ、そして私の働きかけに共鳴してくれない妻への怒り。

 『妻のため』という善意の働きかけではなく、救済者のつもりでるからには、紆余曲折しながらも私が妻の病気を治し、私を命の恩人だと感謝する、という結末を迎えることになっていて、私の自己愛を助長するサクセスストーリー(私はやっぱり立派だと再確認できる筋書き)に協力してくれなかった妻への怒り。そんなことの連続で、救済なんてほんの少しでもできた手ごたえがありませんでした。仕方なしにその立場は降りたのですが、その時は敗北感で満たされていました。

 その時期に、努力の限りを尽くしてもどうにもならない事がある、と気づき始めました。しかしそれを自覚するまでに長い長い時間がかかりました。努力したが挫折した、努力しないならば放棄するしかない、としか思えなかった当時の私は、努力以上の手段はないと思い、それは自分では成す術がないと思い知らされることであり、手足を奪われる感覚にも似ているだろうと大げさに考えていました。

 それでもなお、摂食障害の妻と一緒に暮らす悩み多き夫という、非凡な立場である事に特権意識みたいなものを持っていました。今でもそれは変わりません。挫折を味わい荒れてもなお、それでも諦めずに逆境に耐える事が私の美徳と謳い、「だから私は立派だ」とその味を噛み締める事や、「私は苦境に耐えている」とか「病気の人と望みもしない結婚で不幸まみれ」と吹聴して回り同情を得る事が、努力の次に私にできる事でした。

 「よくできた旦那、優しい夫」といわれる事が時々ありましたが、それは他人が「私は立派だ」と証明してくれる事になるので、非常に優越感がありました。今でもそう言われる事に快感があります。しかし悩み多き夫婦なんて世の中にざらにいますし、夫婦でなくても人それぞれ、ほぼ一人残らず悩みに付きまとわれています。私だけが非凡な悩みを持って、特別な逆境を耐えていると考えることは、思い上がりでしかないと、ようやく冷静になってきた気がします。それでも「自分はほんの僅かでも人を抜いている」と思っている節は大いにあります。

 密な関係にある一人の人間との付き合いにいろいろつまずく事が多いのであって、『摂食障害だから』という問題はおまけ程度に過ぎないとも思えます。そして重要な事は、今後もし妻の病気が快方に向かうにつれて、私の内面にある人格上の問題がますます露顕すると予感しています。

 妻との取り組みの中で、自分の姿が見えなかったから、あるいは自分の姿を見ないで済むように、妻に問題を転嫁してきたから、苦しいだの何だの言っても、結局は人のせいにして楽をしていた気がします。だから「病気さえ治ったらすべてがよくなる」と願う事柄は、おおむね幻想だと認めています。

 妻が最近、方々で私の話をして褒めちぎっているようです。そして私に「『優しい旦那』と言ってくれた。」と聞かせてくれます。妻の既婚の友達は、夫の悪口を並べているのに、妻は幸せだと言うそうです。それに対して「よくできた旦那」と羨ましがられるといいます。私はそれを聞くと内心穏やかでいられないのですが、謙遜しつつも素直にその言葉を受け取って喜ぶ事にしています。

 「料理ができる旦那がうらやましい」と言われることが多いそうですが、私は仕事でそれが必要とされているからでもあり、親の教育がそうでもあったからであり、得意なわけではありません。友人が羨ましがる『料理ができる旦那』によって、妻が嫌な思いをさせられた事は多くあります。それでも無邪気に喜ぶ妻が健気にも思えますし、痛々しくも思えます。

 実家を離れたことがなく、婚前に花嫁修業なしに突然に駆け落ちのような結婚をした妻が作った料理を、私がいつでも喜んで食べるわけではありません。妻は元来ちょっとした事でも傷つく性格です。そして私は棘のある言葉を平気で言う性格です。

 だから私が優しい良くできた旦那なのではなく、友人の旦那がダメなのでもありません。妻が私のほんのわずかにある、まぁまぁ良い部分を最大限に引き伸ばそうと無言の努力を重ねてくれているからです。それに既婚の友人たちも愚痴って楽しんでいるだけだと思います。

 妻が私を良く評価し、友人がそれを聞いて白けることなく、羨ましいと思ってくれる事に対して、頭を下げて感謝したいと思うばかりです。

 私がこんな風に前向きな事を考えられるのは、今は妻の調子が良く、それによって私も機嫌良く生活できているからです。

 今まで全ては私の思い違いと自惚れでした。私は特別でも非凡でもありませんし、まして以前に感じていたような特権も何もありません。艱難を乗り越える強さなんて、私にあるとは思えませんし、いつくじけるか明日すら予測できません。

 私に特権があるならば、いつも私に感謝してくれて私のために努力を重ねてくれる妻の存在であり、その妻がいてくれるという境遇は非凡そのものだと思います。

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2008-09-10

妻の話を聴く時は心穏やかになれない

 妻が元彼Aを恨む気持ちを語るとき、私は聞いていると思ったとおりの事を言うと傷つけてしまうので、何も言えなくなってしまいます。苦し紛れの言葉を出す時はありますが、そこには何の気持ちもこもっていません。

 私が思う事は「どうしようもない事をいつまでも。。。私に悔しいと語る事で、私に何とかしろと訴えているのか?自分は何も労せずに周りが動いて解決する事を期待してるのか?実際に言うばかりで何とかするための行動が全然ない。Aを罰するとか仕返しするにしても自分の力で。この現実を受け入れるのであれば、ひたすら耐えて理不尽を乗り越えなくてはいけない。」

 そして実際に解決法はない事もわかっています。だから私に「惨めな気持ちをどうにかしろ」と妻が迫ってくるようにも感じます。それに対して私は「人を頼らずに自分で何とかしろ」と思うわけですが、しかし本当はどうにもできない厳しい現実の壁を感じずにはいられません。どうにもできない私の姿が、妻の目には「どうにかしようとしない」と映り、私が責められ敵意を持たれているようにも感じます。

 どうにかしようとしないのは思われているだけでなく、実際にどうしようとも思っていないのは事実で、どうにもできないから、たとえどうにかできるとしても労力が大きすぎるから諦めて、私が妻の気持ちから手を退いて態度を頑なにしている一面もあります。

 よく考えてみると、これは妻が私に訴えるときに、私自身が好意的に思っていないのですから、それは私の態度にも表れていると思います。妻が私の態度を読み取り、好意的でないと感じているのは間違いなさそうです。妻を好意的でないと感じるのは、私が好意的でないからです。

 「妻が私を好意的に思ってくれない」と私が思い込んでいる事による感情の不安定さが、妻に対するイライラの原因の一つなのかもしれません。

 昔の妻であれば恨む気持ちが収まらないと言って、リストカットや大量服薬をしたでしょう。今ではめったにそんな事はありませんが、それらの代わりに相変わらず過食嘔吐が続いています。妻のそんな姿は、「Aの事を思い出すたびに恨みの気持ちが沸きあがる」と少しずつ言葉で表現できるようになってきていますし、言葉にすることで折り合いを付けていくと思います。数年前とは明らかに違ってきている気がします。

 妻は行動による、特に凶行よる感情表現ではなく、言葉で感情を表しているのに、私に聴く耳がないために妻を失望させているのだろうと思います。

 妻が恨みつらみを口にする度に、私は「黙って耐えろ」と心の内で思い、内心穏やかでないのですが、実のところ妻はほとんどの時を黙って耐えています。何かのきっかけで耐え切れなくなった時にポロッと口にするだけです。たったそれだけの事なのですが、それだけで私の心模様は乱れに乱れます。

 逆に妻が黙っているならば、それはそれで「黙っていないで何とか言えばいいのに。」と反論したくなります。どちらにしても私は妻を責めたくて仕方がないのだろうと思いますが、それがなぜなのかはよく判りません。

 何かにつけ妻に不満を持ち、蔑まないと気がすまない私の性格によるものだと思います。自分より人を下に追いやる事に何らかの価値の見ているのでしょうか?そうする事でしか妻と私の間で、自分の価値がわからないのでしょうか?

 実際には妻が劣っているかどうかも判らないのに、そもそも人に優劣なんかないとも思うのですが、人の性格の細々とした短所を見つけては、あるいはたとえ優れた点でも、その内面を勘ぐって重大な欠点をカムフラージュするための見せかけだろうなどと、是が非でも人を見下さないと気がすみません。そしてそれは無意識的に瞬間的に行っている事です。

 そうする反面、「自分は愚かな人間だ。人に感謝して謙虚になろう」などと悟ったつもりになって、自己洞察が深いと自負する気持ちも強くあります。そして自分は愚かなくせに傲慢で自負心が強い、と懺悔と言うか贖罪と言うか能書きを人に聞かせて、慰みや許しをもらいたいような気持ちにもなっています。

 その時に「これから気をつけたらいい」などの戒めの言葉が返ってくると、素直にその通りですとは思えません。せっかくの懺悔の気持ちが、相手への攻撃の気持ちに変わります。あくまで慰めしか受け付けられません。簡単に正反対の気持ちに転化してしまう所が、私の思う事が何事も「判ったつもり」であり偽物だとみなす理由です。

 いつか妻が「私が働けないのは病気のせい」と言ったのは、私のこの気持ちと似ていたのかもしれないと思ったりもします。慰めが欲しかったのかもしれません。あの時に「病気が嫌な反面、病気でいる事で働く事や年相応に求められる責任が免除されている。」ととても冷静な事を長々と演説しました。あまりにも残酷な言葉でした。

 妻と向かい合うときに余裕がなくなってしまうから、すぐに大真面目になってしまうのか、私にとっての正論を表さずにはいられなくなります。適当な距離を取られなくなります。河合隼雄の『心の処方箋』という本の中で、「正しい意見はひとまず役に立たない。まじめも休み休み言え」と説明されていましたがその通りです。

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2008-08-28

病気のせい

 「私が働けないのは病気のせいに出来るから。」

 私が妻のその言葉を聴いたときに、何かの引っ掛かりを感じました。

 妻がそう言った流れは、司法試験の勉強をしている妻の友達の話が始まりでした。試験には落ち続けて、「もうそろそろ諦めて普通に働いたほうがいいのでは・・・?」と悩んでいるそうです。

 しかし30歳手前にして職歴が無いので、なかなか就職できないそうです。そこで妻が言ったのが先の言葉です。

 私には妻の言葉が、免罪符のようにも聞こえました。病気の原因となったのが妻の過去の交際相手です。つまり妻の病気とは過去の男を恨むこと。恨みが無くなれば病気もなくなる−−−かどうかは分かりませんが−−−−妻の現状は過去の男のせいと言っても良いでしょう。 「私の人生何もかもあの男に壊された。」と思う気持ちが大きいから、自分で解決していく気が失せているように見えるのは仕方ないと思います。

 なのですが、私には本心からその通りと思えません。

 病気さえなければ、、、あの男との出来事がなかったら、、、色々考えるとは思いますが、過去の男との出来事は不幸としか言いようがありませんが、もっと根本的なところで妻は病気のお陰で、向き合っていかないといけない現実を見ずに済ませている、とも考えられます。

 病気が快方に向かうと−−−−と言うことは−−−−恨みの気持ちを手放していくならば、こまごまとした生活技術を身に付けなければなりません。妻の社会的身分を全うしなければなりません。職業の事も考えなければなりません。自分自身の生活や人生の見通しを考えなくてはなりません。

 うがった考えなのは重々承知ですが、病気のせいで働けないのは、『働きたくないから病気でいる』とも考えられそうな気がします。

 もう10年も昔の出来事ですが、その出来事の是非は別として、そういう関係を作ったのは二人であり、その点に於いては相手を恨むも恨まれるもない気がします。

 その男からひどい扱いを受けた後にも、4年間の交際があったこと。交際が終わってからも、妻の気持ちはその男を慕う気持ちが続いたこと。今は慕う気持ちから恨む気持ちへと変わり、正反対の感情でありながら、精神的にその男から離れることが出来ない事。

 −−−−私は何も悪くないのに、あんなにひどい目にあったのだから、誰かの救済にあずかって当然、そうやって報われるべき。−−−−

 そう思うのが今の妻に出来る精一杯なのかもしれません。誰だってそんな風になる時はあると思います。私だってそうなるであろう一人です。だから今の妻の行いがいけない事だと思いません。

 酷い扱いを受けたその一点を見るならば、妻には何の非もありません。妻は性犯罪被害者です。しかし大局を見るならば、その後の妻がどういう人生を進んでいくかは妻にしかできない事です。その男に任せることはできません。

 今の妻に「自分の力でしか立ち直ることはできない」と説き、言い聞かせることは出来ません。妻は自らの問題として考える段階にはまだ行けてないとも考えられます。これは今の妻に「頑張りが足りない」と言うのと同じです。ですが、いつか「頑張らねば」と自ら発起すると思っています。

 私が言う事は、妻に対する気持ちがないと充分わかっています。そしてそれは他人が抱くきれい事で、何の役に立たないことも判っています。いくら受け入れるとか共感とがご立派な事を言っても、根本的に否定的感情を抱いていると感じずに入られません。

 苦しみの渦中にいる妻を見て辛くなるのではなく、私の中に渦巻く感情と向き合うことに非常な困難を感じます。私は何も出来ずにそばにいるのが、ただ辛くもあり悲しくもあります。妻自身も誰もの努力が及ばない所にいさされている事が時に耐えられなくなります。

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2008-08-26

結局は平凡

 私は自分を愚かで、人の痛みを知らない酷い人間だ、などと蔑む事に懸命になっている気がしますが、自分を深みに追い込み、色々時がついていくことで、自分が非凡であると思っている、または非凡になりたいと思っています。

 自分への気付きが少ない人と私とを区別して考えていることもあります。もし他人からそんな私の偽善心や選民思想、エリート意識を指摘されると穏やかではいられないでしょうし、取り乱した気持ちを隠すために、普通の振りをしながら内心はとても慌てるに違いありません。そして自分を守るために屁理屈を並べるだろうと思います。

 特に妻から指摘されると、私の振る舞いは酷いものだろうとも想像できます。ふだん攻撃性を見せず、反論もせず黙認してくれる人、つまり私に優しくしてくれる人、私にとって妻とはそんな存在です。

 いくら私が重荷を負っているとか、妻の不幸に自分が巻き込まれているとか思っても、不自由を感じても、結局私は優しくしてくれる存在に対して、子が親に求めるそれのような気持ちでいます。

 私が日々考えている事をわかってほしい、自分への気付きを深める私を褒めてほしいと思うのが本望です。気付きそのものを自分の糧にすることは、どうやら二の次のような気がします。

 あからさまな自己顕示の行為とは種を異にする謙虚さや呵責の気持ちは、やっている事がやや哲学的宗教的な路線寄りで、ずるい手段を経た単なる承認欲求はごく平凡な感情と何も変わりません。

 非凡を振る舞うと、かえって平凡が目立つだけで、これはまったく裸の王様と同じであろうと思います。

 そして当然のことはあえて何も思いも言いもしないように、平凡なら平凡でなんとも思わない気がするのですが、殊更に平凡を意識する事で、非凡であろうとする作為が生まれるような気もします。

 自分が平凡かどうかなんて自分で決めることでもなかろうに。こんな事を気にして自分の力でどうにかしようとしている事自体がばかげている気もします。

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2008-08-20

自己顕示欲

 テレビを観ていても「いや、今の話は違うだろ。そうじゃなくて〜〜〜〜だ。」と意見を言ってしまいます。妻と話をしていても「そうじゃなくて。」と逆らってしまいます。

 反論する際から「またやってしまった・・・。」と気付いています。私はこんな性格が嫌いで、私と似たような事をする人に出会うとウンザリしてしまいます。

 そういう人を何度も見てきたのに、私の文句言いな性格は一向に直りません。

 反論だけでなく、私は自慢話もどうやら大好きで、文句言いな性格も実は知識をひけらかしたい欲が源になっています。だから私はいろんな事を知ろうとする欲が強く、物知りとか雑学王と笑われる事もある反面、その自己顕示欲を見抜く人からは冷たい視線を向けられる事もあります。

 いくら多くの事を知ろうとしても、私のやっている事は全く愚かであると、自分でもうすうす判っています。

 私の目に付く事に異を唱えるのは「自分には人と違う考え方やセンスがある。あなたの知らないことを知っている。」と自慢したいからで、異を唱える意見などよくよく考えると、支離滅裂や単なる思い込みである事が少なくありません。

 そして何よりも口に出して自慢する事で「自分は洗練されている」と信じて、自己愛を助長するための便利な手段になっています。

 妻はそんな私をどう見ているのでしょう。私の心の動きに気が付いていない訳がありません。そしてそれを知りながら、私の話を聞き「へぇー、本当!?」と驚き、妻への反論に対しては、私に心をチクリと刺され痛い思いをしながらも、黙って頷いています。私の心を見抜きながらも何も言い返しません。

 妻が本当に私を見抜いているかはわかりませんが、妻の姿を見ていると私はそんな気分にさせられます。

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2008-08-12

本と向き合わずに妻と向き合う

 「本ばっかり向き合わないで私と向き合って。」

 今から2年か3年前に妻に言われた事です。「本ばっかり・・・」と言われた事だけでなく、他の事でもいつでも思うのですが、妻から言われた事は時がたってから、その本当の意味が判り「あの時の言葉はこういう意味だったのか。妻の言う事は正しかった。」と思い知らさせる事が本当に多くあります。

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2008-07-27

傷に貼るバンドエイド

私が休みの日に派遣のバイトに行ったのは、収入を増やしたいからでした。出勤までの数時間に洗濯して掃除したのは、清潔にしたいからでした。休みの日に手の込んだ料理を作ったのは、美味しい物を食べたいからでした。引越しを繰り返したのは妻にとって良い環境で暮らすためでした。

 心のうちに秘めていた悪意を打ち消すために、私は自分にそう言い聞かせて自分の本心を聴こうとしませんでした。

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