優しさは枯れる
過去に親切にしてくれた思い出や、親から受けたやさしさ、親友があれこれと世話を焼いてくれた経験。ありとあらゆる人からいろいろな思いや愛情を受けて成長していき、それがたくさんあればあるほど大きな優しさを発揮できる様に思います。言ってみれば今までに触れ合った気持ちの大きさ、気持ちの多さが人の限界つまり器の大きさを決めるようにも思います。
恨みは憎しみはその感情を使えば使うほど増えていくのに、優しさは使えば使うほど減ってしまうのでしょうか。しかも伸びきったゴムが突然切れるように、優しさがゼロになるときは突然やってきます。優しさとは力であり、人それぞれ持っている力には差があります。摂食障害にしろうつ病にしろ、ありとあらゆる対人支援と言うのは、優しさの消耗戦のようにも思えてきます。もちろん消耗するだけではなく、ためていくこともあるのですが、自分の持っている力をどれだけ駆使し注ぐことができるか。使った分だけ減ってしまう。減ってしまった分はまた潤せばいいのですが、究極的に完全に空っぽになってしまったら、また潤せばいいなどと言う話ではなくなります。今まで支援する人だったのに支援される人になってしまいます。
乾ききった砂漠の砂に一滴ずつしずくが落ちて、水たまりになるまでにどれだけの時間が掛かるか。いろんな人が何度も何度も補充を繰り返して人を潤していく。どれだけ時間が掛かるかどれだけの優しさがいるのか、全く判りませんけど力を優しさを注ぎ続けるには、一人に蓄えられている全ての力でも到底足りないときもあります。たいていはなぜか一人を潤すのに一人の力ではたりません。私の優しさを貴方にそっくりそのまま差し上げても、貴方に差し上げた時にはなぜか足りていません。質量保存の法則はここでは成り立ちません。
私は今まで自分の暮らしの中で、一人で乗り越えることを何かしらの美徳としてきました。努力して己に克ち困難を乗り越えることが私の人生のやりがいでしたし、全てにおいてそうでした。自分を努力家だと称するのではないけども、たぶん自負心すらもあります。妻の病気でもそれはおなじで、孤立無援などと思いながらも人の助けや言葉を無視しているのが実際です。無視と言うよりも「余計な事を言うな。知らんくせに。」と邪魔に思うときがあります。だから妻にも入院はさせないし(通院はしています)カウンセリングも受けさせない。これには経済的な理由が第一にあるのだけど、私の気持ちの幾らかは病院やカウンセラーが助けになるのではなく「私が助ける」その思いは否定できません。
これは私自身の力を錯覚しているのではないかと思います。なんかねぇ・・・、もっとできるはずって思ってしまうんですよ。人に助けを求めることが負ける事な気がして。自分はもっと出来る奴になりたいって思うから、適当にヘルプ信号を出すことが出来なくなるんです。やっぱり強くなるには厳しい環境に身をおいてこそだと思うし、ここぞと言う時には力を出し切らなくてはなりません。それが今なのではないかとも思います。
苦しんでもがいてこそ伸びるもんだと思うし、そんなボロボロになってもへらへら笑っているくらいに強くなりたいって。それが自分のこだわりなんだろうと思います。これを手放すとたぶん自分は生きる力も失うんじゃないかな?って思います。死んでしまうとかそんな極端ではないけど、生きる張り合いをなくしてしまうというか、目的がなくなってしまいそうです。
でもこのこだわりがそろそろ不都合になってきている気もします。少しは融通を利かすことを学ぶ時期が来ているのかもしれません。自分を律する気持ちが強いのはいい事だろうけど、いくら良いことだといっても、物事には全て中庸と言うのがあるのが常だし、やっぱり何事でも没頭してしまうと視野も狭くなるし気持ちが硬くなる。硬くなった気持ちからは、私が一番に望む「尽きない優しさ」は出てこなくなりそうです。尽きないと言っても、与えられないと与えることも出来ないし、やはり人の優しさに触れ合うことじゃないかな?と思います。
家族介護で問題になる虐待や夫婦間のDVやモラハラ、親子間の虐待もだし、この悪の渦に巻き込まれる人はほとんどが孤独で、そして人一倍優しい。私が優しいと主張するのではありませんが、優しくなりたいとは思っています。その優しさが毒牙に変わってしまうのは、優しさが枯れてしまった時。心が硬くなると人の心の硬い所しか見えなくなる。優しさを失うと人の優しさが判らなくなる。
これはきっと病気をしている本人にも当てはまると思います。感謝ができなくなる、憎む恨む。絶えず責めの気持ちに蝕まれる。心の病の本当に恐ろしい事は家に引きこもってしまう事でなく、痩せていないと不安で仕方がないことでもなく、まして大量に食べて吐き出す事にもありません。人の気持ちが判らなくなってしまう事。人を気遣うことができなくなること。人を粗末に扱ってしまう事。その人とは自分自身でもあり、回りの人々でもあります。自分を守ってくれる人をどれだけ傷つけているか判らなくなってしまう事。
恨みは憎しみはその感情を使えば使うほど増えていくのに、優しさは使えば使うほど減ってしまうのでしょうか。しかも伸びきったゴムが突然切れるように、優しさがゼロになるときは突然やってきます。優しさとは力であり、人それぞれ持っている力には差があります。摂食障害にしろうつ病にしろ、ありとあらゆる対人支援と言うのは、優しさの消耗戦のようにも思えてきます。もちろん消耗するだけではなく、ためていくこともあるのですが、自分の持っている力をどれだけ駆使し注ぐことができるか。使った分だけ減ってしまう。減ってしまった分はまた潤せばいいのですが、究極的に完全に空っぽになってしまったら、また潤せばいいなどと言う話ではなくなります。今まで支援する人だったのに支援される人になってしまいます。
乾ききった砂漠の砂に一滴ずつしずくが落ちて、水たまりになるまでにどれだけの時間が掛かるか。いろんな人が何度も何度も補充を繰り返して人を潤していく。どれだけ時間が掛かるかどれだけの優しさがいるのか、全く判りませんけど力を優しさを注ぎ続けるには、一人に蓄えられている全ての力でも到底足りないときもあります。たいていはなぜか一人を潤すのに一人の力ではたりません。私の優しさを貴方にそっくりそのまま差し上げても、貴方に差し上げた時にはなぜか足りていません。質量保存の法則はここでは成り立ちません。
私は今まで自分の暮らしの中で、一人で乗り越えることを何かしらの美徳としてきました。努力して己に克ち困難を乗り越えることが私の人生のやりがいでしたし、全てにおいてそうでした。自分を努力家だと称するのではないけども、たぶん自負心すらもあります。妻の病気でもそれはおなじで、孤立無援などと思いながらも人の助けや言葉を無視しているのが実際です。無視と言うよりも「余計な事を言うな。知らんくせに。」と邪魔に思うときがあります。だから妻にも入院はさせないし(通院はしています)カウンセリングも受けさせない。これには経済的な理由が第一にあるのだけど、私の気持ちの幾らかは病院やカウンセラーが助けになるのではなく「私が助ける」その思いは否定できません。
これは私自身の力を錯覚しているのではないかと思います。なんかねぇ・・・、もっとできるはずって思ってしまうんですよ。人に助けを求めることが負ける事な気がして。自分はもっと出来る奴になりたいって思うから、適当にヘルプ信号を出すことが出来なくなるんです。やっぱり強くなるには厳しい環境に身をおいてこそだと思うし、ここぞと言う時には力を出し切らなくてはなりません。それが今なのではないかとも思います。
苦しんでもがいてこそ伸びるもんだと思うし、そんなボロボロになってもへらへら笑っているくらいに強くなりたいって。それが自分のこだわりなんだろうと思います。これを手放すとたぶん自分は生きる力も失うんじゃないかな?って思います。死んでしまうとかそんな極端ではないけど、生きる張り合いをなくしてしまうというか、目的がなくなってしまいそうです。
でもこのこだわりがそろそろ不都合になってきている気もします。少しは融通を利かすことを学ぶ時期が来ているのかもしれません。自分を律する気持ちが強いのはいい事だろうけど、いくら良いことだといっても、物事には全て中庸と言うのがあるのが常だし、やっぱり何事でも没頭してしまうと視野も狭くなるし気持ちが硬くなる。硬くなった気持ちからは、私が一番に望む「尽きない優しさ」は出てこなくなりそうです。尽きないと言っても、与えられないと与えることも出来ないし、やはり人の優しさに触れ合うことじゃないかな?と思います。
家族介護で問題になる虐待や夫婦間のDVやモラハラ、親子間の虐待もだし、この悪の渦に巻き込まれる人はほとんどが孤独で、そして人一倍優しい。私が優しいと主張するのではありませんが、優しくなりたいとは思っています。その優しさが毒牙に変わってしまうのは、優しさが枯れてしまった時。心が硬くなると人の心の硬い所しか見えなくなる。優しさを失うと人の優しさが判らなくなる。
これはきっと病気をしている本人にも当てはまると思います。感謝ができなくなる、憎む恨む。絶えず責めの気持ちに蝕まれる。心の病の本当に恐ろしい事は家に引きこもってしまう事でなく、痩せていないと不安で仕方がないことでもなく、まして大量に食べて吐き出す事にもありません。人の気持ちが判らなくなってしまう事。人を気遣うことができなくなること。人を粗末に扱ってしまう事。その人とは自分自身でもあり、回りの人々でもあります。自分を守ってくれる人をどれだけ傷つけているか判らなくなってしまう事。
家族介護
認知症介護実践者研修と言うのあり、その講義の中で家族介護の家族側の気持ちを語る講演会がありました。
認知症であっても親は親。妻は妻。夫は夫。認知症という病気だと割り切ることが出来ればこれほど楽なことはない。ただその気持ちを手に入れる事ができるかできないかだけの違い。そのわずかとも思える違いが雲泥の差で、無理解な周囲は無慈悲な言葉で叱咤もするし励ましもする。
ホームヘルパーに来てもらったら、自分のやり方が悪いといろいろ指摘される。貴方にとっては仕事で介護の相手はお客さん。私にとっては仕事ではなく介護の相手は母親。どんどんと追い詰められていく。
嫌ならやめたらの話ではない。何をどうすればいいの話でもはない。ただ先の見えない闇が苦しい。気持ちの余裕がなくなった時の苛立ちが自分の心にも突き刺さる。もう死んでしまいたい。殺してしまいたい。叩いたことなど数え切れないくらい。母親の首に手をかけたこともある。その手に力を込めたこともある。でもあと少しと言うところで力を抜いてしまった。母親と一緒に電車に飛び込もうとした時もあった。でも鳴り響く警笛に圧倒されできなかった。
私の思いと一緒でした。摂食障害と言う病気だと割り切れるならば、そんな世界は天国にいるような気持ちだろう。
そんな事は気持ちしだいだ。精神障害だと知ってて結婚したんだから。奥さんを愛してないのですか?奥さんは病気なのです。どうしようもないのです。まずそこを判ってあげてください。自分が誤っていると思うなら変わっていけるはず。貴方のほうが病気だ。まず自分がどうありたいのかを考えて。いっそ離婚したら。何が正しいかを判っているならば実行できるはずですよね。貴方が奥さんの病気を悪化させている。
いろんな事を言われました。すべてその通りです。図星っていつも大当たりなんです。その度に、そうか悪いのは自分だ・・・と傷つき反省しました。
悪いのは自分。悪い自分はダメ。ダメな自分は価値なし。
病気が治ってくれたら。妻から病気から自分もいろいろ学び伸びていけたら。
でもそんな事を願っても自分が悪い。悪い自分は意味なし。
今まで苦言をくれた人も悪意の無いことは充分にわかっています。皆さん正しいことしか言ってないのですから。皆さんはたくさん苦労して培ってきた知恵の中から仰っていることですから、私は否定しません。皆さんの仰ることは本当にその通りです。私にそれを受け入れるだけの空きがないのです。
講演してくれた人はこう言っていました。
−−−−まず介護に向き合っているだけでも立派です、それだけで充分に優しい人なのです。叩いたことなんて誰でもあります。私もやりました。嫌になって死にたくなる事や殺したくなる事もあって当然です。介護が苦で自殺、殺人を犯す人が年々増えています。踏みとどまっているだけでも充分に生きる強さのある人です。心情を吐露することは恥ずかしいことではありません。誇りを持って吐き出してください。その吐き出しを聞いて勇気を持てる人もいます。介護の苦労は想像を絶します。上手くできなくても貴方の価値を下げるものではありません。大変な思いをしてきたからこそ、逆に価値が上がるはずです。−−−−
などなど。仕事の関係で参加した講演会なのですが、私事と重なってしまい涙が流れました。
認知症であっても親は親。妻は妻。夫は夫。認知症という病気だと割り切ることが出来ればこれほど楽なことはない。ただその気持ちを手に入れる事ができるかできないかだけの違い。そのわずかとも思える違いが雲泥の差で、無理解な周囲は無慈悲な言葉で叱咤もするし励ましもする。
ホームヘルパーに来てもらったら、自分のやり方が悪いといろいろ指摘される。貴方にとっては仕事で介護の相手はお客さん。私にとっては仕事ではなく介護の相手は母親。どんどんと追い詰められていく。
嫌ならやめたらの話ではない。何をどうすればいいの話でもはない。ただ先の見えない闇が苦しい。気持ちの余裕がなくなった時の苛立ちが自分の心にも突き刺さる。もう死んでしまいたい。殺してしまいたい。叩いたことなど数え切れないくらい。母親の首に手をかけたこともある。その手に力を込めたこともある。でもあと少しと言うところで力を抜いてしまった。母親と一緒に電車に飛び込もうとした時もあった。でも鳴り響く警笛に圧倒されできなかった。
私の思いと一緒でした。摂食障害と言う病気だと割り切れるならば、そんな世界は天国にいるような気持ちだろう。
そんな事は気持ちしだいだ。精神障害だと知ってて結婚したんだから。奥さんを愛してないのですか?奥さんは病気なのです。どうしようもないのです。まずそこを判ってあげてください。自分が誤っていると思うなら変わっていけるはず。貴方のほうが病気だ。まず自分がどうありたいのかを考えて。いっそ離婚したら。何が正しいかを判っているならば実行できるはずですよね。貴方が奥さんの病気を悪化させている。
いろんな事を言われました。すべてその通りです。図星っていつも大当たりなんです。その度に、そうか悪いのは自分だ・・・と傷つき反省しました。
悪いのは自分。悪い自分はダメ。ダメな自分は価値なし。
病気が治ってくれたら。妻から病気から自分もいろいろ学び伸びていけたら。
でもそんな事を願っても自分が悪い。悪い自分は意味なし。
今まで苦言をくれた人も悪意の無いことは充分にわかっています。皆さん正しいことしか言ってないのですから。皆さんはたくさん苦労して培ってきた知恵の中から仰っていることですから、私は否定しません。皆さんの仰ることは本当にその通りです。私にそれを受け入れるだけの空きがないのです。
講演してくれた人はこう言っていました。
−−−−まず介護に向き合っているだけでも立派です、それだけで充分に優しい人なのです。叩いたことなんて誰でもあります。私もやりました。嫌になって死にたくなる事や殺したくなる事もあって当然です。介護が苦で自殺、殺人を犯す人が年々増えています。踏みとどまっているだけでも充分に生きる強さのある人です。心情を吐露することは恥ずかしいことではありません。誇りを持って吐き出してください。その吐き出しを聞いて勇気を持てる人もいます。介護の苦労は想像を絶します。上手くできなくても貴方の価値を下げるものではありません。大変な思いをしてきたからこそ、逆に価値が上がるはずです。−−−−
などなど。仕事の関係で参加した講演会なのですが、私事と重なってしまい涙が流れました。
「どうせ」と思うから嫌になってくるのか?
過食嘔吐を見ていると「どうせ言っても通じない」と諦めさせられることが多くある。食事の直前にコンビニ弁当を買ってくるとか、食べる時の行儀が悪いとか、トイレの使用後が汚いとか、生活全般に不潔感があるとか。コンビニ弁当を食べたからと言って夕食を食べないのではない。一日三度の食事はちゃんと食べている。
私が休みの日は私が張り切って私が夕食を作るけど、それはただお腹の中にかき込んで吐き出す食事ではなく、五感で味わう食事をして欲しいと思うから。でも、どれだけ手間を掛けて作っても吐き出して、ラーメンのどんぶりに炊飯器のご飯を全て入れて、漬物を汁ごとかけて犬食い&一気食い。そして吐き出す。時にこの光景に気分がしおれてしまう。
しかしそんな事を思うのは私の間違いかな?と思う時もある。結局は「私の作った料理」という気持ちが大きいために恩着せがましくなっているだけかもしれない。私が張り切って豪華に作ることが妻にとっては気が重いのだろうとも思う。
「お里が知れる」と言われるように、食事の行儀でその育った家庭や躾の程がわかるという意味だろうか?「親に教えられなかったのか?」と思うことも多くある。自分で茶碗と箸を持って食べるようになる年齢になれば、教えられる事であろうと思うことができない。たぶん三歳から五歳くらい、小学生になるまでにはある程度は教えられて、できるようになるだろうと思うこと、その時期にそれらの事が躾けられていないのかと疑問に思う。いくら夫婦になった間柄とは言え、そんな食事をしている事を恥ずかしくないのか?とも思う。
思っているとは思う。自分のやっていることが嫌でたまらないと思う。だから苦しんでいるのだろうと思う。ちゃんと躾けられたとも思う。ちゃんとできた事ができなくなっているのだろうと思う。しかし、時にはそんな共感的理解ができなくなるときがある。善意の目で見られなくなるときがある。私の苦しみはこれに尽きる。判ってやりたい受け入れたい、できる時もあるができない時の方が圧倒的に多い。
食行動とはその人だけでなく、その家庭や親のことまでも想起させるくらい、もちろんそれだけで人やそのバックグラウンドを判断してはいけないが、人の質が見えてしまうことでもあるように思う。しかしそこまで食行動にこだわっている私が変なのかとさえ疑わしくなってくるくらいに自分の価値感や美徳とする事が揺らいでくる。
トイレも綺麗になりさえすればいいのだと思い直せば誰が掃除をやってもいいことだし、不潔であってもそれは妻の事だから、私は自分自身を身奇麗にしていればそれでいいだけ。家の中が不潔ならば私のできる範囲で清潔にすればいいだけのこと。
要はそれだけの事。しかしそれで納得できないから気持ちがやられてくる。
言葉も違う、文化も習慣も違うどこかよその国の人のように、私が当然と思うことがその人には非常識だと思うくらいに大きな隔たりを感じる。私が赤に見える物がその人には青に見えるくらいの違いがあるのだろうか?とか思えるときもある。
日常の小さなことだけども、それらに憤りを感じているのが嫌になってくるし、その度に小言を言うのもウンザリだから、何も口出ししないことの方が多くなっている。その度に思うのが「いっても判ってくれない」という諦めの気持ち。
言った瞬間はいいのだけど、すぐに言うんじゃなかったと後悔する。言ったところで妻の反応はいつも同じ。返事もせずに沈黙するだけ。「聞いてる?返事くらいしたら?」と問い詰めたら、判ってる、ごめんなさい、または「うん」の一言。そして布団にもぐりこんで無視。
苦言は一切受け付けません、みたいな態度と雰囲気を漂わせている。それでもいいとも思う。こちらも言うことは言う。ダメなことはダメと言う。聞き入れるか入れないかは相手の判断。その頑固さが自分自身を苦しめている事に気が付けばいいだけ。
そんな風に自分を正当化する気持ちもあるが、その思いよりも強く私の内側に留まっているのが、細かい事に憤って不愉快になっている自分が嫌いで仕方ない。人の欠点を粗さがしするかのように、次々と見つけては機嫌が悪くなっている。些細なことに口出ししたくて仕方ないけど、そんな自分が嫌になってくるので黙っている。ただ口うるさいだけなのか。
私はこんなにも小さい人間か。もっと大らかに寛容になりたいが、これは私自身の人間性の成長に伴うものだと思う。私の妻への意識が変わると摂食障害も変化していく事は間違いない。たぶん。
私が休みの日は私が張り切って私が夕食を作るけど、それはただお腹の中にかき込んで吐き出す食事ではなく、五感で味わう食事をして欲しいと思うから。でも、どれだけ手間を掛けて作っても吐き出して、ラーメンのどんぶりに炊飯器のご飯を全て入れて、漬物を汁ごとかけて犬食い&一気食い。そして吐き出す。時にこの光景に気分がしおれてしまう。
しかしそんな事を思うのは私の間違いかな?と思う時もある。結局は「私の作った料理」という気持ちが大きいために恩着せがましくなっているだけかもしれない。私が張り切って豪華に作ることが妻にとっては気が重いのだろうとも思う。
「お里が知れる」と言われるように、食事の行儀でその育った家庭や躾の程がわかるという意味だろうか?「親に教えられなかったのか?」と思うことも多くある。自分で茶碗と箸を持って食べるようになる年齢になれば、教えられる事であろうと思うことができない。たぶん三歳から五歳くらい、小学生になるまでにはある程度は教えられて、できるようになるだろうと思うこと、その時期にそれらの事が躾けられていないのかと疑問に思う。いくら夫婦になった間柄とは言え、そんな食事をしている事を恥ずかしくないのか?とも思う。
思っているとは思う。自分のやっていることが嫌でたまらないと思う。だから苦しんでいるのだろうと思う。ちゃんと躾けられたとも思う。ちゃんとできた事ができなくなっているのだろうと思う。しかし、時にはそんな共感的理解ができなくなるときがある。善意の目で見られなくなるときがある。私の苦しみはこれに尽きる。判ってやりたい受け入れたい、できる時もあるができない時の方が圧倒的に多い。
食行動とはその人だけでなく、その家庭や親のことまでも想起させるくらい、もちろんそれだけで人やそのバックグラウンドを判断してはいけないが、人の質が見えてしまうことでもあるように思う。しかしそこまで食行動にこだわっている私が変なのかとさえ疑わしくなってくるくらいに自分の価値感や美徳とする事が揺らいでくる。
トイレも綺麗になりさえすればいいのだと思い直せば誰が掃除をやってもいいことだし、不潔であってもそれは妻の事だから、私は自分自身を身奇麗にしていればそれでいいだけ。家の中が不潔ならば私のできる範囲で清潔にすればいいだけのこと。
要はそれだけの事。しかしそれで納得できないから気持ちがやられてくる。
言葉も違う、文化も習慣も違うどこかよその国の人のように、私が当然と思うことがその人には非常識だと思うくらいに大きな隔たりを感じる。私が赤に見える物がその人には青に見えるくらいの違いがあるのだろうか?とか思えるときもある。
日常の小さなことだけども、それらに憤りを感じているのが嫌になってくるし、その度に小言を言うのもウンザリだから、何も口出ししないことの方が多くなっている。その度に思うのが「いっても判ってくれない」という諦めの気持ち。
言った瞬間はいいのだけど、すぐに言うんじゃなかったと後悔する。言ったところで妻の反応はいつも同じ。返事もせずに沈黙するだけ。「聞いてる?返事くらいしたら?」と問い詰めたら、判ってる、ごめんなさい、または「うん」の一言。そして布団にもぐりこんで無視。
苦言は一切受け付けません、みたいな態度と雰囲気を漂わせている。それでもいいとも思う。こちらも言うことは言う。ダメなことはダメと言う。聞き入れるか入れないかは相手の判断。その頑固さが自分自身を苦しめている事に気が付けばいいだけ。
そんな風に自分を正当化する気持ちもあるが、その思いよりも強く私の内側に留まっているのが、細かい事に憤って不愉快になっている自分が嫌いで仕方ない。人の欠点を粗さがしするかのように、次々と見つけては機嫌が悪くなっている。些細なことに口出ししたくて仕方ないけど、そんな自分が嫌になってくるので黙っている。ただ口うるさいだけなのか。
私はこんなにも小さい人間か。もっと大らかに寛容になりたいが、これは私自身の人間性の成長に伴うものだと思う。私の妻への意識が変わると摂食障害も変化していく事は間違いない。たぶん。
私の食行動
昔、私の食事はガツガツしていた。腹いっぱいに詰め込まないと気がすまなかった。育ち盛りといえばそうだったかもしれない。ラーメンを食べに行っても唐辛子を目一杯入れて、テーブルに配られたネギも全部入れてた。おいしく食べていたけど、味わう食事とはかけ離れていた。外食はいつも腹いっぱいになる食べ物だった。だからバイキングとか牛丼、ラーメン屋だった。
友人たちと連れ立って店に行き、何でも大盛りを頼んで腹の中に詰め込むように食べ尽くした。その後は必ず腹をこわしトイレに何度も駆け込んだ。今になって振り返ると下剤乱用の過食嘔吐のような食事に思える。体重へのこだわりも何もなかったけど、外食すると必ずそんな風だったが、しかし家での食事は外食のそれと比べると信じられないくらいの少食だった。
当時の友達で食の細い上品な人がいたけど、その人の落ち着きがイラつくときもあったし、ノリが悪いと思ったことが何度もあった。友人の上品さが鼻についた。逆に私がいつもガツガツしていたので、卑しく思われていたのだろうと今になって思う。
そのときの私は空腹だから思いっきり食べるのが当然と思っていたし、友人のように普通の量を普通に食べようとは思ってもいなかった。今の私が考えるような、“貪るような食事の仕方は精神的な何かの枯渇を象徴する”とかはまったく想像もしなかったし、仮にそんな事を言われても頷くどころか、何のことかさっぱりわからなかったと思う。そんなわけの判らない事を言う人がそばにいたら反発すらしたかもしれない。当時の自分に精神的な何かが枯渇していたかどうかもわからない。
母からは「ヤケクソみたいな食べ方で食べ物に八つ当たりしているようだ」といわれた。もちろん私は自分のやっていることを八つ当たりともヤケクソとも思わなかった。人が何を言おうが私のやり方で思いっきり食べたいだけだった。私なりに食を楽しんではいたのだけど、その行動には怒っているような感情が見えたのかもしれない。
当時の私はのんびりした人と思われていた節があるけども、それは穏やかな振りをしていただけで、内面は結構いろんな事にイライラしていた。特定の人にカチンと来る事がよくあって、何らかの関係で自分より下だと見なした人に対しては言葉使いが荒くなった。「あいつに対して言葉がキツくないか?」と諌められた事もあった。今よりはずっと棘のある性格だったし、自己主張が強かった。自分が正しいと錯覚していたし傲慢だった。若さゆえの・・・行いだったろうと感じる。今でもそんなに変わってはいないだろう。
いつでもガツガツしていた姿にうんざりしていた人は少なからずいた。付き合いのあった女性はそう思っていた節がある。外食は安くて量のあるところばかりだったし、私と食事をすると落ち着かないと言われたことがあるし、ラーメンと牛丼ばかりといわれたこともある。しかし私は相手に合わせようと思ったことはなかった。私の食べたいものはこれ、と主張することしか頭になかった。自分に合わせない相手が悪い、私の食べるのが早いのではなく相手の食べるのが遅いとさえ思っていた。自分自身がガツガツしているとも思っていなかった。
私は私のスタイルで、あなたは貴方でどうぞ。これが私の考え方で今でも変わっていない。自他の分離がはっきりしすぎている。私はそれでよくても周りはそうは思っていない。時には迷惑すらしているときもあると思う。私に調子を合わせて、私の都合がいいようにしてくれている人が大勢いるような気がする。
最近になってそんな事をふと思った。ガツガツの食事をしていたのは二十歳前後の頃。十五年から二十年近く時が過ぎてようやく気が付いた。自分の行いに気が付くにはこんなにも時間が必要なのかと驚く反面、今の行いの愚かさに気が付くのは・・・十五年から二十年後。五十歳を過ぎてからなのか・・・。
友人たちと連れ立って店に行き、何でも大盛りを頼んで腹の中に詰め込むように食べ尽くした。その後は必ず腹をこわしトイレに何度も駆け込んだ。今になって振り返ると下剤乱用の過食嘔吐のような食事に思える。体重へのこだわりも何もなかったけど、外食すると必ずそんな風だったが、しかし家での食事は外食のそれと比べると信じられないくらいの少食だった。
当時の友達で食の細い上品な人がいたけど、その人の落ち着きがイラつくときもあったし、ノリが悪いと思ったことが何度もあった。友人の上品さが鼻についた。逆に私がいつもガツガツしていたので、卑しく思われていたのだろうと今になって思う。
そのときの私は空腹だから思いっきり食べるのが当然と思っていたし、友人のように普通の量を普通に食べようとは思ってもいなかった。今の私が考えるような、“貪るような食事の仕方は精神的な何かの枯渇を象徴する”とかはまったく想像もしなかったし、仮にそんな事を言われても頷くどころか、何のことかさっぱりわからなかったと思う。そんなわけの判らない事を言う人がそばにいたら反発すらしたかもしれない。当時の自分に精神的な何かが枯渇していたかどうかもわからない。
母からは「ヤケクソみたいな食べ方で食べ物に八つ当たりしているようだ」といわれた。もちろん私は自分のやっていることを八つ当たりともヤケクソとも思わなかった。人が何を言おうが私のやり方で思いっきり食べたいだけだった。私なりに食を楽しんではいたのだけど、その行動には怒っているような感情が見えたのかもしれない。
当時の私はのんびりした人と思われていた節があるけども、それは穏やかな振りをしていただけで、内面は結構いろんな事にイライラしていた。特定の人にカチンと来る事がよくあって、何らかの関係で自分より下だと見なした人に対しては言葉使いが荒くなった。「あいつに対して言葉がキツくないか?」と諌められた事もあった。今よりはずっと棘のある性格だったし、自己主張が強かった。自分が正しいと錯覚していたし傲慢だった。若さゆえの・・・行いだったろうと感じる。今でもそんなに変わってはいないだろう。
いつでもガツガツしていた姿にうんざりしていた人は少なからずいた。付き合いのあった女性はそう思っていた節がある。外食は安くて量のあるところばかりだったし、私と食事をすると落ち着かないと言われたことがあるし、ラーメンと牛丼ばかりといわれたこともある。しかし私は相手に合わせようと思ったことはなかった。私の食べたいものはこれ、と主張することしか頭になかった。自分に合わせない相手が悪い、私の食べるのが早いのではなく相手の食べるのが遅いとさえ思っていた。自分自身がガツガツしているとも思っていなかった。
私は私のスタイルで、あなたは貴方でどうぞ。これが私の考え方で今でも変わっていない。自他の分離がはっきりしすぎている。私はそれでよくても周りはそうは思っていない。時には迷惑すらしているときもあると思う。私に調子を合わせて、私の都合がいいようにしてくれている人が大勢いるような気がする。
最近になってそんな事をふと思った。ガツガツの食事をしていたのは二十歳前後の頃。十五年から二十年近く時が過ぎてようやく気が付いた。自分の行いに気が付くにはこんなにも時間が必要なのかと驚く反面、今の行いの愚かさに気が付くのは・・・十五年から二十年後。五十歳を過ぎてからなのか・・・。
生かされているなんて感じるのは可笑しいかも知れないけど
周りの環境に生かされている。と感じることが多くなったのはなぜか判りませんが、機嫌のいいときも悪いときも周りからの影響でそうなっているのだろうし、逆境に立ち向かえる力があるときもそれは自分の力なのではなく、過去の誰かの励ましとか、現在の何かか誰かから力が与えられて、自分が立ち向かえる力を発揮できるのであって、無の状態でまったくの自分の力だけで何かができるなんて事はおそらくないだろうと思います。
受験勉強していたときの事をよく思い出すのですが、自分の努力で志望校に合格したのは、勉強だけをしていたらよい生活があって、食うも寝るも誰かの世話になる事を許されて、予備校に通えるだけの環境があったから努力ができた。
誰がその生活を与えてくれたか。言うまでもない。
今の私の生活。妻の摂食障害。へこむ事、いらいらする事、あきらめたくなる事、投げ出したくなる事、色々ありますが、そんなときの自分を何とか支えてくれている人がいるのも事実です。
気分が大らかになれる時、笑ってすごせる時、もうダメと思っていたことを「もう一度」と考え直すことができた時、そういう気分にさせてくれた「何か」の存在が必ずあります。
自分の力でできること。そんなもんあるのか。
受験勉強していたときの事をよく思い出すのですが、自分の努力で志望校に合格したのは、勉強だけをしていたらよい生活があって、食うも寝るも誰かの世話になる事を許されて、予備校に通えるだけの環境があったから努力ができた。
誰がその生活を与えてくれたか。言うまでもない。
今の私の生活。妻の摂食障害。へこむ事、いらいらする事、あきらめたくなる事、投げ出したくなる事、色々ありますが、そんなときの自分を何とか支えてくれている人がいるのも事実です。
気分が大らかになれる時、笑ってすごせる時、もうダメと思っていたことを「もう一度」と考え直すことができた時、そういう気分にさせてくれた「何か」の存在が必ずあります。
自分の力でできること。そんなもんあるのか。
なんとなくプラス思考なときもある
きっと何かの役に立つ。
今こそ笑うとき。
空を仰げ小さな悩みだ。
まぁいいか。
無理に言い聞かせるのではありませんが、自分の理想の姿を思い描いて、いつかきっとそうなりたいと願い続けています。自分の欠点を否定して「これではアカンから直すべき」とは思わないようにしています。
自分の理想を描くということは、現在の自分を否定することになるのかもしれませんが、今がダメだから今後は良くならなければならない、という発想の道順ではなくて、ただ単に子供が途方もない夢を見てワクワクするような気持ちを感じることがあります。
今の自分がどうだとか、実現するためには何かを始めなければいけないとか、硬いことは考えなくなってきました。
「人は変えられない、変えられるのは自分だけ。」こんな言葉があります。確かではありませんが、フランスには「自分が変わったと思うほどに元の場所に帰ってくる」との諺があるそうです。私はどちらかと言うとフランス派なのかもしれません。
自分の理想を求めて変化していく事を望んではいるのですが、気持ちのどこかでは変わったと思っても幻を見ているだけで、実際には客観的には元のまま、みたいなもんだろうとも思っています。
でもそれが頑張っても所詮無駄だと諦めるような退廃的な思考だとも思っておらず、人は元々清濁併せ持つもので、自分の理想が自分の本質と異なっていれば理想には近づけないだろうし、天性というか自分の核となるものをしっかり見つけられた上で、種をどう育てるか、どんな枝振りにして行こうかが考えられるのではないかなと思います。
極端な事を言えば、イワシに生まれたものはクジラにはなれないのであって、夢を大きく持つことは自分には身分不相応なのだと卑下する気持ちにもなりそうですが、世の中の凡人はイワシで、大成した人がクジラなのかといえばそうでもない気がします。
大差ない。そんな気がします。タイかもしれない、グレかもしれない、チヌかもしれない。値段も大きさも似たり寄ったりの群れが人間なのかなぁ〜、でもそれぞれ違う。
一時期はやった「自分探し」と言う言葉。
今こそ笑うとき。
空を仰げ小さな悩みだ。
まぁいいか。
無理に言い聞かせるのではありませんが、自分の理想の姿を思い描いて、いつかきっとそうなりたいと願い続けています。自分の欠点を否定して「これではアカンから直すべき」とは思わないようにしています。
自分の理想を描くということは、現在の自分を否定することになるのかもしれませんが、今がダメだから今後は良くならなければならない、という発想の道順ではなくて、ただ単に子供が途方もない夢を見てワクワクするような気持ちを感じることがあります。
今の自分がどうだとか、実現するためには何かを始めなければいけないとか、硬いことは考えなくなってきました。
「人は変えられない、変えられるのは自分だけ。」こんな言葉があります。確かではありませんが、フランスには「自分が変わったと思うほどに元の場所に帰ってくる」との諺があるそうです。私はどちらかと言うとフランス派なのかもしれません。
自分の理想を求めて変化していく事を望んではいるのですが、気持ちのどこかでは変わったと思っても幻を見ているだけで、実際には客観的には元のまま、みたいなもんだろうとも思っています。
でもそれが頑張っても所詮無駄だと諦めるような退廃的な思考だとも思っておらず、人は元々清濁併せ持つもので、自分の理想が自分の本質と異なっていれば理想には近づけないだろうし、天性というか自分の核となるものをしっかり見つけられた上で、種をどう育てるか、どんな枝振りにして行こうかが考えられるのではないかなと思います。
極端な事を言えば、イワシに生まれたものはクジラにはなれないのであって、夢を大きく持つことは自分には身分不相応なのだと卑下する気持ちにもなりそうですが、世の中の凡人はイワシで、大成した人がクジラなのかといえばそうでもない気がします。
大差ない。そんな気がします。タイかもしれない、グレかもしれない、チヌかもしれない。値段も大きさも似たり寄ったりの群れが人間なのかなぁ〜、でもそれぞれ違う。
一時期はやった「自分探し」と言う言葉。
低い目標と完璧主義 2/2
過食嘔吐はたぶん喜怒哀楽のひとつなのだろうとも思います。妻は怒りを表現することがありません。たぶん怒りの代わりに過食嘔吐だろうなと思います。怒りの対象とはほとんどが自分自身です。人付き合いで嫌なことがあってもイライラの対象は自分になります。些細なことで気に病んでいる自分が許せない、過食嘔吐を我慢できなかった自分が嫌い、みたいな感覚でしょうか?
過食嘔吐が怒りのすり代わりとするならば、怒りでないにしても感情表現の一つとするなら ば、「過食嘔吐をしない」と言うことは「怒らない」または「自己表現をしない」と言っているのと同じで、ひとつの感情をなくすことを意味しているように聞 こえます。はたしてそれは成功するでしょうか?だから「ある程度は病気をコントロールする感覚」が大切なんだと思います。
でも過食嘔吐を止めるために本当に大切なのは、これから書くことだと確信を持っています。
こうすればできるとか、〜〜であることが大切とか、そんな事を言ってもそれをどう思うかは妻次第で、私の言うことはいつでも正論です。それに対して妻の言うことは感情論です。感情論はいつでも正論に負けてしまいますが、八方塞りでどうしようもない衝動に振り回される辛い気持ちは正論には判ることができませ ん。正論には人の気持ちを判る温かさがありません。
たぶん妻の本意である「過食をやめたいと思っているのだけどやめられない。働きたい気持ちはいつだって持っているけど怖い。」っていうジレンマを、私が感じることが一番求められているのだろうと思います。感じることができなくても、忠告もアドバイスもなしでただ聞いて欲しいのだろうと思います。評価でも非難でもない私の感想を聞きたいのだと思います。
冷静なときはそんな簡単なことはすぐに判るのですが、妻から言葉を聞いたその時には、なぜか冷静さがなくなってしまいます。どうしても自我の主張が一瞬で膨らんでしまいます。
私は自分に不甲斐なさをいつも感じ、妻に不器用に接することしかできない事にいつも罪を感じています。私の不器用さに晒されて傷つき耐えている妻を不憫に思えてなりません。私がもっとしっかりしていれば。。。と反省するばかりですが、反省が活かされることはほとんどありません。
牛歩の歩みよりも遅い私を見捨てることなく、事あるごとに私に意見を求めてくる妻を本当にありがたいと思います。そしてまた私は同じ過ちを繰り返してしまいます。しかし妻はそれでも私を信じて頼っています。私はそういう風に妻に守られていると感じています。
そこには妻の病気とか過食嘔吐とかを超えた夫婦としての二人の人間関係が問われている気がします。そうやって私が自分の行いに気づいて行くことが本当に大切だと思います。
過食嘔吐が怒りのすり代わりとするならば、怒りでないにしても感情表現の一つとするなら ば、「過食嘔吐をしない」と言うことは「怒らない」または「自己表現をしない」と言っているのと同じで、ひとつの感情をなくすことを意味しているように聞 こえます。はたしてそれは成功するでしょうか?だから「ある程度は病気をコントロールする感覚」が大切なんだと思います。
でも過食嘔吐を止めるために本当に大切なのは、これから書くことだと確信を持っています。
こうすればできるとか、〜〜であることが大切とか、そんな事を言ってもそれをどう思うかは妻次第で、私の言うことはいつでも正論です。それに対して妻の言うことは感情論です。感情論はいつでも正論に負けてしまいますが、八方塞りでどうしようもない衝動に振り回される辛い気持ちは正論には判ることができませ ん。正論には人の気持ちを判る温かさがありません。
たぶん妻の本意である「過食をやめたいと思っているのだけどやめられない。働きたい気持ちはいつだって持っているけど怖い。」っていうジレンマを、私が感じることが一番求められているのだろうと思います。感じることができなくても、忠告もアドバイスもなしでただ聞いて欲しいのだろうと思います。評価でも非難でもない私の感想を聞きたいのだと思います。
冷静なときはそんな簡単なことはすぐに判るのですが、妻から言葉を聞いたその時には、なぜか冷静さがなくなってしまいます。どうしても自我の主張が一瞬で膨らんでしまいます。
私は自分に不甲斐なさをいつも感じ、妻に不器用に接することしかできない事にいつも罪を感じています。私の不器用さに晒されて傷つき耐えている妻を不憫に思えてなりません。私がもっとしっかりしていれば。。。と反省するばかりですが、反省が活かされることはほとんどありません。
牛歩の歩みよりも遅い私を見捨てることなく、事あるごとに私に意見を求めてくる妻を本当にありがたいと思います。そしてまた私は同じ過ちを繰り返してしまいます。しかし妻はそれでも私を信じて頼っています。私はそういう風に妻に守られていると感じています。
そこには妻の病気とか過食嘔吐とかを超えた夫婦としての二人の人間関係が問われている気がします。そうやって私が自分の行いに気づいて行くことが本当に大切だと思います。
低い目標と完璧主義 1/2
よく「過食をやめたい」と口癖のように言っています。妻のことですから「まったくしなくて済む方法」を考えているのだろうと思います。私にも相談してくれますが、私は真剣に聞かずいつも笑ってしまいます。笑われている妻はどう感じているでしょう。妻はまじめに考えているのに私は嘲笑です。
「まだそんな事に囚われているのか・・・まだ判らないのか・・・」とため息が出てきます。白黒はっきりさせないと気がすまない完璧主義ですから、そういう考えしかできないのだろうと思います。一日家に一人で閉じこもって過食したい欲求を抑えて、過食以外に考えることがなくて、なぜしなくて済ませられるのでしょうか?1時間もしないうちにだめになりませんか。
仕事に出れば過食しなくて済む時間を作ることができて、お金も入ってくるから働くことに執着しますが、なれない環境や緊張や義務や責任がどうしても重圧になるから働くことができません。過食しなくて済む時間を作るのは働くことだけでしょうか?
毎回5合炊いているご飯を4合にしてみるとか、使う分だけのお金を持って買い物に行くとか、お菓子が2袋あるけど1つは残しておこうとか、過食嘔吐をやめることを考えるのではなく、その病気は病気として保ちつつ、しかしある程度は病気をコントロールする感覚を身につける事が、この病気をどうにかする目標だ と思います。食に関係することだけを目標にする必要もありません。
でもたぶんこれは病気の人からすれば、一番のこだわりは食でしょうしそれ以外には関心が薄いから他に目標を作っても取り組めないかもしれません。過食嘔吐を程々にやめるでは気がすまないでしょうし、またそれこそが苦手であ り、5合を4合にと言ってもそれができないっ!って反論が出てきそうです。
「ボランティアでも行ってみたら?区役所の福祉課に行ってみれば障害者の共同作業所やボランティアの情報があるだろうし。外に出る気力があるならば社会と繋がって何らかの役割を持っていることは大切だと思うよ。自助サークルに顔を出してもっとたくさんの摂食障害に出会ってみるのもいいと思うよ。」
妻は行ってみるとはいいますが、実際に行動はしません。身近な人の言うことはなかなか頷けないのだろうと思います。完璧主義は自分に固執する頑固さでもあります。人の話に耳を傾ける事が苦手なのも完璧主義の特徴です。
病気だからとか完璧主義とか抜きにしても、単純に人の忠言に素直になれないものだと思います。私も人の言うことはなかなか聞けません。なぜかは判りませんが、人に屈するような気分になってしまうのでしょうか??それが嫌なのでしょうか?
お金ももったいないし過食嘔吐が嫌だ、とはよく言うのですが、1日でもそれから抜け出せたことがありません。過食嘔吐しないための行動もありません。ごちゃごちゃと御託を並べては言い訳しているようにも聞こえてきますし、結局は過食嘔吐以外にしたい事がないのだけれど、こんな事を一日中やっているのが嫌で仕方ない。この気持ちを私にぶーたれたい。「良くない事だとは充分に判っている。けどやめることができないの。」これを何度でも言いたいし、聞いて欲しい。のかな?
低い目標ではやる気になれないのかもしれません。ですから取り組もうとしません。だから低くした目標ですらできないのです。「たったこれくらいの事もできないのか??」と驚くほどの自制心のなさを見るときがあります。いかにハードルを低くできるか、低くてやる気になれないハードルでも取り組もうとする気持ちがこの病気のキーかもしれません。
高い目標を決めてそれに挑みたい完璧主義に反する自分をどれだけ許せるかと言うことでもあります。そしてこの目標とは1回でもクリアできたら成功なのではなく、継続可能な目標であることが大切だと思います。だからこそ瞬発力でできる事では続きません。本当に小さな小さな目標のほうがいいのです。
精神的に上下が多いこの病気ですが、そんな時でもこなせる目標が継続可能と言うことで、それは気分が落ち込んでいても「あぁ〜もうイヤイヤ!何もかもどうでもいい。」ではなく、そんな時でも「これは私が決めたルールだから」と自律する自分自身であることも大切です。
でもこれってきっと私見落としていると思います。妻の小さな努力なんて見られていないです。私の目線で物を見て、私が努力と見なした事しか認めてない気がします。
「まだそんな事に囚われているのか・・・まだ判らないのか・・・」とため息が出てきます。白黒はっきりさせないと気がすまない完璧主義ですから、そういう考えしかできないのだろうと思います。一日家に一人で閉じこもって過食したい欲求を抑えて、過食以外に考えることがなくて、なぜしなくて済ませられるのでしょうか?1時間もしないうちにだめになりませんか。
仕事に出れば過食しなくて済む時間を作ることができて、お金も入ってくるから働くことに執着しますが、なれない環境や緊張や義務や責任がどうしても重圧になるから働くことができません。過食しなくて済む時間を作るのは働くことだけでしょうか?
毎回5合炊いているご飯を4合にしてみるとか、使う分だけのお金を持って買い物に行くとか、お菓子が2袋あるけど1つは残しておこうとか、過食嘔吐をやめることを考えるのではなく、その病気は病気として保ちつつ、しかしある程度は病気をコントロールする感覚を身につける事が、この病気をどうにかする目標だ と思います。食に関係することだけを目標にする必要もありません。
でもたぶんこれは病気の人からすれば、一番のこだわりは食でしょうしそれ以外には関心が薄いから他に目標を作っても取り組めないかもしれません。過食嘔吐を程々にやめるでは気がすまないでしょうし、またそれこそが苦手であ り、5合を4合にと言ってもそれができないっ!って反論が出てきそうです。
「ボランティアでも行ってみたら?区役所の福祉課に行ってみれば障害者の共同作業所やボランティアの情報があるだろうし。外に出る気力があるならば社会と繋がって何らかの役割を持っていることは大切だと思うよ。自助サークルに顔を出してもっとたくさんの摂食障害に出会ってみるのもいいと思うよ。」
妻は行ってみるとはいいますが、実際に行動はしません。身近な人の言うことはなかなか頷けないのだろうと思います。完璧主義は自分に固執する頑固さでもあります。人の話に耳を傾ける事が苦手なのも完璧主義の特徴です。
病気だからとか完璧主義とか抜きにしても、単純に人の忠言に素直になれないものだと思います。私も人の言うことはなかなか聞けません。なぜかは判りませんが、人に屈するような気分になってしまうのでしょうか??それが嫌なのでしょうか?
お金ももったいないし過食嘔吐が嫌だ、とはよく言うのですが、1日でもそれから抜け出せたことがありません。過食嘔吐しないための行動もありません。ごちゃごちゃと御託を並べては言い訳しているようにも聞こえてきますし、結局は過食嘔吐以外にしたい事がないのだけれど、こんな事を一日中やっているのが嫌で仕方ない。この気持ちを私にぶーたれたい。「良くない事だとは充分に判っている。けどやめることができないの。」これを何度でも言いたいし、聞いて欲しい。のかな?
低い目標ではやる気になれないのかもしれません。ですから取り組もうとしません。だから低くした目標ですらできないのです。「たったこれくらいの事もできないのか??」と驚くほどの自制心のなさを見るときがあります。いかにハードルを低くできるか、低くてやる気になれないハードルでも取り組もうとする気持ちがこの病気のキーかもしれません。
高い目標を決めてそれに挑みたい完璧主義に反する自分をどれだけ許せるかと言うことでもあります。そしてこの目標とは1回でもクリアできたら成功なのではなく、継続可能な目標であることが大切だと思います。だからこそ瞬発力でできる事では続きません。本当に小さな小さな目標のほうがいいのです。
精神的に上下が多いこの病気ですが、そんな時でもこなせる目標が継続可能と言うことで、それは気分が落ち込んでいても「あぁ〜もうイヤイヤ!何もかもどうでもいい。」ではなく、そんな時でも「これは私が決めたルールだから」と自律する自分自身であることも大切です。
でもこれってきっと私見落としていると思います。妻の小さな努力なんて見られていないです。私の目線で物を見て、私が努力と見なした事しか認めてない気がします。
S子と出会ってから
過食嘔吐でありながら体重が30kgちょっとという妻と同じ症状のS子と出会って、妻は何を感じたでしょうか?自分の体を鏡で見た時に体型の異常さには昔から気付いていたのですが、妻がよく「認知の歪み」と言うように、それでも太っていると感じているようでした。
身長と体重の割合から言うと、妻の方が痩せていて手足の細さは妻の方が勝っていると言っていましたが、妻がS子を見て感じたことは、皮膚のたるみや色、手の甲は骨が浮き出ていて年寄りみたいだった事、頬骨の唾液腺の腫れも妻以上だったし、顔色が青い土色で死んだ色みたいで表情も死んでいた、などなどを教えてくれました。
やせ具合と言うのは、人それぞれの身長と体重と体質があり、見た目と言うのも骨格がしっかりして痩せている人は骨が張って見えます。実際に体重が何kgなのかより、妻が感じたことはS子の不健康さではないでしょうか?もうすぐ30歳になる妻はいろいろ感じてたと思います。
私が妻に感じる事も妻がS子に感じたことと同じで、体よりも精神的な不健康さです。同じ空間で一緒に生活しているうえで、妻の出す陰鬱な雰囲気の方や極端で偏った思考回路の方が何倍も問題で、妻の雰囲気と価値観に何度も侵されてきました。今でも私の具合が余程良くないと妻の空気に負けてしまいます。
雰囲気と言ってしまえば目に見えないものですし、あるかどうかもはっきりしないものなので、要は気にするかしないかだけのものだとも思いますが、いくら気にするなと言い聞かせても巨大な渦に巻き込まれるような感覚や、大きな津波が覆いかぶさってくるような感覚は毎度のことですし、会話の源になる価値観も予想以上に人の調子を狂わせてしまいます。
昔の話になりますが、、、
以前はファミレスのバイキングが大好きで、本当に遠慮のえの字も感じられないくらいに食べまくって吐きまくっていました。近所のラーメン屋でも妻は遠慮なくラーメン大盛りにご飯大盛りにから揚げ大を注文していました。しかし最近ラーメン屋に行こうかと誘ってみた時に、外食すればここぞとばかりにあれもこれもと注文しまくっていた妻が店員さんの目線が気になるから外食したくないと言い出しました。
食料品売り場の試食を平らげたり、閉店前のスーパーで先を争って値引きされた弁当をかごに入れていく姿を何度も見ました。自分の腕に下げた買い物カゴが小さな年寄りの頭にぶつかってもまったく気が付いていません。人をかき分けて弁当や惣菜に駆け寄って行きます。あの時は本当に妻の姿を疑いました。
そんなにまで食に対していきり立つ妻だったのですが、何個も弁当を買ってくることは少なくなりました。本当に調子が悪く何か悩みを抱えてイラついている時だけで、その過食嘔吐を終えたら何の悩みが原因だったか、それに悩んでいる妻の内面を分析しながら私に説明までしてくれるようになりました。
吐かなくても済む量にも気を使うようになってきました。依然インスタントラーメンを3個一気に食べたりもしているのですが、ウィダーインゼリーなら吐かない事を知りそれを日に数個飲んでいます。カロリーを異常に気にして食べると必ず吐くのですが、不思議なことに野菜ジュースは日に3本飲んでも吐きません。3本も飲んだらそれだけで1000kcalくらいになるのですが。。。
身長と体重の割合から言うと、妻の方が痩せていて手足の細さは妻の方が勝っていると言っていましたが、妻がS子を見て感じたことは、皮膚のたるみや色、手の甲は骨が浮き出ていて年寄りみたいだった事、頬骨の唾液腺の腫れも妻以上だったし、顔色が青い土色で死んだ色みたいで表情も死んでいた、などなどを教えてくれました。
やせ具合と言うのは、人それぞれの身長と体重と体質があり、見た目と言うのも骨格がしっかりして痩せている人は骨が張って見えます。実際に体重が何kgなのかより、妻が感じたことはS子の不健康さではないでしょうか?もうすぐ30歳になる妻はいろいろ感じてたと思います。
私が妻に感じる事も妻がS子に感じたことと同じで、体よりも精神的な不健康さです。同じ空間で一緒に生活しているうえで、妻の出す陰鬱な雰囲気の方や極端で偏った思考回路の方が何倍も問題で、妻の雰囲気と価値観に何度も侵されてきました。今でも私の具合が余程良くないと妻の空気に負けてしまいます。
雰囲気と言ってしまえば目に見えないものですし、あるかどうかもはっきりしないものなので、要は気にするかしないかだけのものだとも思いますが、いくら気にするなと言い聞かせても巨大な渦に巻き込まれるような感覚や、大きな津波が覆いかぶさってくるような感覚は毎度のことですし、会話の源になる価値観も予想以上に人の調子を狂わせてしまいます。
昔の話になりますが、、、
以前はファミレスのバイキングが大好きで、本当に遠慮のえの字も感じられないくらいに食べまくって吐きまくっていました。近所のラーメン屋でも妻は遠慮なくラーメン大盛りにご飯大盛りにから揚げ大を注文していました。しかし最近ラーメン屋に行こうかと誘ってみた時に、外食すればここぞとばかりにあれもこれもと注文しまくっていた妻が店員さんの目線が気になるから外食したくないと言い出しました。
食料品売り場の試食を平らげたり、閉店前のスーパーで先を争って値引きされた弁当をかごに入れていく姿を何度も見ました。自分の腕に下げた買い物カゴが小さな年寄りの頭にぶつかってもまったく気が付いていません。人をかき分けて弁当や惣菜に駆け寄って行きます。あの時は本当に妻の姿を疑いました。
そんなにまで食に対していきり立つ妻だったのですが、何個も弁当を買ってくることは少なくなりました。本当に調子が悪く何か悩みを抱えてイラついている時だけで、その過食嘔吐を終えたら何の悩みが原因だったか、それに悩んでいる妻の内面を分析しながら私に説明までしてくれるようになりました。
吐かなくても済む量にも気を使うようになってきました。依然インスタントラーメンを3個一気に食べたりもしているのですが、ウィダーインゼリーなら吐かない事を知りそれを日に数個飲んでいます。カロリーを異常に気にして食べると必ず吐くのですが、不思議なことに野菜ジュースは日に3本飲んでも吐きません。3本も飲んだらそれだけで1000kcalくらいになるのですが。。。
同じ痩身の友達
妻がまたMIXIで新しい友達を見つけました。今度は妻と同じ過食嘔吐なのですが、体型は痩せ型で妻と同じ病態の人です。過食嘔吐でも標準体型を維持する人と、妻のように30kgちょっとの痩身になる人の違いって何でしょう?妻の場合は過食嘔吐ながらも、医師からは拒食症と診断されています。
摂食障害を親の愛情云々で語ってしまうならば、本当かどうか知りませんが、拒食症は愛情過多で過食症は愛情不足なんていうらしいです。でも拒食症も本人が愛情過多だと認識はしていないと思います。親の過干渉とか子供の意思を尊重しないで親の意思を子供に押し付けるとか、親の気持ちを逆撫でする事が世間ではよく言われますが、そういう事が摂食障害に影響しているとすれば、これを愛情過多だといえばそうかもしれません。子と親の心理的な距離と言えば近いには間違いないでしょうが、子に寄り添うような近さといえば、それは違う気もします。
話がそれましたが、私にすると妻の後々を思うとこの新しい人が妻にどんな影響を与えるか、楽しみと感じる一面もありますし、妻のやることにはほとんど無関心な一面もあります。
私は以前より自助グループには行ってみたら?と勧めていました。病気と付き合って妻より年月長い人や短い人、妻の先を行く人、妻の家庭と似たバックグランドを持つ人、などなどいると思います。きっと妻の映し鏡となるような人に出会えるかもしれないと思ったからです。妻の物事の考え方の反映になる人、痩身を反映する人とかそんな人に出会って自分を見つめて欲しいと思ったからです。
一堂に会する方が多くの人に出会えるし、生でその人を感じたほうが良いかな?と思ったのですが、もちろんMIXIでも構いません。ネットで出会ってメールで話をし始め、会ってみましょうか?と話が進んでいく方が妻が好む出会い方なのかもしれません。出会い方はどうでもいいと思います。
そしてその人に会うことになり、妻は非常に興味津々でした。「過食嘔吐で私と同じ体型の人には出会ったことがない。やっぱり家庭環境とか親とかうちと似ているのかな?聞いてみたい。」そんなことを言っていました。
実際に会ってみて私に話をしてくれるましたが、言葉で会話を交わした以上に妻はいろいろと感じたと思います。いまや妻にとって病歴の長さと過食嘔吐の激しさは一種の誇りにもなっているように感じます。妻の話す言葉の裏には、自分のほうが病状がひどい事を自負するような感情が見て取れなくもありません。
ヤバイと感じている一面もあるようです。普通に食事を取りたいとも言います。今までなら過食はお金がかかるから、拒食になりたいとはよく言っていました。外食に行ってもご飯大盛りにおかずは2品3品と注文するし、店の人からは変な目で見られるし、あるファミレスでは入店を断られました。
私と一緒に食べるのは食事で、一人で食べるのは過食だそうです。しかし私との食事であろうが、一人であろうが妻の食事の姿は一緒です。私の目にはどれも過食です。何かに追われているように急いで食べて、犬食いでこぼす汚す散らかす。追わればすぐにトイレに掛けていく。追わればまたすぐに過食が始まる。食べるものは確かに食事のときはそれなりの食事です。過食の時はフライパンのように大きい大皿にご飯を山盛りで納豆や漬物をこれまた山盛り。
そういう自分の食習慣をおかしいと実感し始めたのが、新しい友達に出会ってからです。以前よりおかしいとは思っていたでしょうが、「どうにかしないといけない」と思ったことは、おそらく今回が初めてなのかもしれません。
人のふり見て我がふりなおせ。これをどれだけ理解できるかと言うことなのかもしれません。しかし簡単に過食嘔吐が治まるわけがありません。妻が言うには「私の中の小さな子供が暴れている。」らしいです。本当にその通りだと思います。小さな子供はまだまだずっと過食をさせてくれ!と叫んでいるのでしょう。今この機会に小さな子供を黙らせてしまうか?まだ子供の好きにさせておくか?私の判断ではなく、妻が自分と向き合い、つまり子供と納得いくまで話し合いながら決めていくことでしょう。どちらかに決めることが大切なのではなく、時間を掛けて話し合うことが本当の目的です。
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摂食障害を親の愛情云々で語ってしまうならば、本当かどうか知りませんが、拒食症は愛情過多で過食症は愛情不足なんていうらしいです。でも拒食症も本人が愛情過多だと認識はしていないと思います。親の過干渉とか子供の意思を尊重しないで親の意思を子供に押し付けるとか、親の気持ちを逆撫でする事が世間ではよく言われますが、そういう事が摂食障害に影響しているとすれば、これを愛情過多だといえばそうかもしれません。子と親の心理的な距離と言えば近いには間違いないでしょうが、子に寄り添うような近さといえば、それは違う気もします。
話がそれましたが、私にすると妻の後々を思うとこの新しい人が妻にどんな影響を与えるか、楽しみと感じる一面もありますし、妻のやることにはほとんど無関心な一面もあります。
私は以前より自助グループには行ってみたら?と勧めていました。病気と付き合って妻より年月長い人や短い人、妻の先を行く人、妻の家庭と似たバックグランドを持つ人、などなどいると思います。きっと妻の映し鏡となるような人に出会えるかもしれないと思ったからです。妻の物事の考え方の反映になる人、痩身を反映する人とかそんな人に出会って自分を見つめて欲しいと思ったからです。
一堂に会する方が多くの人に出会えるし、生でその人を感じたほうが良いかな?と思ったのですが、もちろんMIXIでも構いません。ネットで出会ってメールで話をし始め、会ってみましょうか?と話が進んでいく方が妻が好む出会い方なのかもしれません。出会い方はどうでもいいと思います。
そしてその人に会うことになり、妻は非常に興味津々でした。「過食嘔吐で私と同じ体型の人には出会ったことがない。やっぱり家庭環境とか親とかうちと似ているのかな?聞いてみたい。」そんなことを言っていました。
実際に会ってみて私に話をしてくれるましたが、言葉で会話を交わした以上に妻はいろいろと感じたと思います。いまや妻にとって病歴の長さと過食嘔吐の激しさは一種の誇りにもなっているように感じます。妻の話す言葉の裏には、自分のほうが病状がひどい事を自負するような感情が見て取れなくもありません。
ヤバイと感じている一面もあるようです。普通に食事を取りたいとも言います。今までなら過食はお金がかかるから、拒食になりたいとはよく言っていました。外食に行ってもご飯大盛りにおかずは2品3品と注文するし、店の人からは変な目で見られるし、あるファミレスでは入店を断られました。
私と一緒に食べるのは食事で、一人で食べるのは過食だそうです。しかし私との食事であろうが、一人であろうが妻の食事の姿は一緒です。私の目にはどれも過食です。何かに追われているように急いで食べて、犬食いでこぼす汚す散らかす。追わればすぐにトイレに掛けていく。追わればまたすぐに過食が始まる。食べるものは確かに食事のときはそれなりの食事です。過食の時はフライパンのように大きい大皿にご飯を山盛りで納豆や漬物をこれまた山盛り。
そういう自分の食習慣をおかしいと実感し始めたのが、新しい友達に出会ってからです。以前よりおかしいとは思っていたでしょうが、「どうにかしないといけない」と思ったことは、おそらく今回が初めてなのかもしれません。
人のふり見て我がふりなおせ。これをどれだけ理解できるかと言うことなのかもしれません。しかし簡単に過食嘔吐が治まるわけがありません。妻が言うには「私の中の小さな子供が暴れている。」らしいです。本当にその通りだと思います。小さな子供はまだまだずっと過食をさせてくれ!と叫んでいるのでしょう。今この機会に小さな子供を黙らせてしまうか?まだ子供の好きにさせておくか?私の判断ではなく、妻が自分と向き合い、つまり子供と納得いくまで話し合いながら決めていくことでしょう。どちらかに決めることが大切なのではなく、時間を掛けて話し合うことが本当の目的です。
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