大人のモデル

妻は小さいときから、

 母親から見損なったような落胆の言葉や、見捨てるような脅迫の言葉を小さいときから何度も聞かされた。母親自身が責められるとすねたような開き直りの態度を示し、その振る舞いによって子供に罪悪感を刷り込んだ。

 例えば、妻が言うには小さい時に、妻と母がけんかして母が家を出て行った事があったらしい。学校のテストの点数が良くないと布団に寝込んで話しかけても返事をしてくれなかったらしい。昔の出来事で母が責められると、「どうせ私が悪いんでしょ。昔の事を言われてもどうしようもないのに。」みたいな態度を露骨に表すらしい。

 父親からは一方的に怒鳴られ、親の価値観を押し付けられた。常に親が正しくて子が間違いとされた。子の意見をぜんぜん聞いてもらえなかった。あまりに威嚇的高圧的な態度で子は萎縮してしまい恐怖で口を開くことすらできなくなってしまった。たとえ言葉を発することができたとしても話の途中でさえぎられてしまい、口を開くチャンスすら与えられなかった。そんな父親の態度は子供だけでなく、家族全員の口を心を閉ざしてしまった。

 娘の摂食障害については父母の意見が一致しているようです。「両親そろって世間並み以上に愛情を注ぎ育てた。だから間違いが起こるような事は何もない。仮に起こるとすれば親が悪いのではなく子供が悪い。唯一親が悪いとすればそれは過保護だったことだけ。」

 これが両親の確固たる考えです。妻が昔のことを蒸し返して、あの時の親の言った事に傷ついたとか、学校で苛められた時でも話を聞いてくれなかったとか、今になって言い出すらしいですが、両親がそろって言うことは、「昔の些細なことを執念深く記憶にとどめて親の恩を仇で返すのか。今じゃなくてなんでその時に言わないのか。言ってくれたら聞いたのに。後になってから『あれが悪い、これが悪い』と結果を責めて卑怯者だ。」

 その時に言えなかったから今になって少しずつ言い出したのに、一向に耳を傾ける気配すらありません。その時に聴けなかったのなら、今から聴いて欲しいと思います。しかし一所懸命に親が正しいと信じる方法で育ててきたのに、非難されるのは本当に耐え難いと思います。仮に私の身にそれが起こるとすれば、私が妻に対して良いと信じて言ったり行動することが実は間違いであったと責められることでしょうか?それも嫌味のある辛らつな言葉で。

 私の価値感を非難をされても、妻の両親のように娘に猛反発するほど傷つく気はしないのですが、実際にそれは私の身に起こってみないと判らない事です。しかし、妻から私の考えに対してチクリを針を刺すような言葉を貰うと、傷つくというかカチンとくることはよくあります。

 これは妻の両親の感じている事と同じでしょうか?責められて凹んでしまうような傷つき方ではなく、傷ついた事に対して反撃の行動であるのか、傷つかないように攻撃の態度を表すのか、どちらにしても怒りがサッと表面に上がってきます。

 10代の中程からは親に反発し、それまで両親を追従してきた生き方から外れて社会に目を向ける事で、自分独自の大人像をイメージしていく時期ではなかろうかと思います。ですから思春期というのは独立するために、大人になるために非常に大切な時だろうと思います。

 思春期反抗期を安全に迎えられるのも、「決して見捨てられる事はない」という絶対的な根底的な親子の信頼関係があるから反発できるのであって、独立して大人になれるのも、はじめは試行錯誤の独立ですので間違いをやってしまって当然です。そんな時に迎え入れてくれる暖かい所があるからこそ大人になれると思います。家庭に安心感がなければ思春期は訪れないのかもしれません。

 反発すれば「親への恩がない」と怒鳴られ、独立しようと模索すれば「親を捨てた卑怯者」と責められる。今までから何度となく、独立するための試みは繰り返されてきたけども、親がそれを許さなかったようにも見えます。

 親に反発することが独立の試みとは言い切れないかもしれません。しかし子が発達する段階での親への反発は子供の思想が発達してきて、親の言う事だけが全てではないと見識が広まってきた証拠だと思います。時に親にとっては自分の信条を否定されることになるのですから、辛い時を迎える事でもあるかもしれません。しかしそこで発達してきた思想を抑えてしまったら、それこそ伸びる芽を摘んでしまう事そのものです。

 言語で表現することにまだ未熟さがあるかもしれないので、ストレートに親を批判するかもしれませんし、昔の出来事を蒸し返して親を逆恨みするかも知れません。親にすれば長い年月をかけて懸命に育て養ってきたのに「あれがダメ。これがダメ。」と否定するかのように烙印を押されていくのですから耐え難いことだろうと思います。しかし言いたい事は親への非難そのものではなく、「あなたはそう思うかもしれないけど、私はこう思う。」と自分の主張こそが本音だろうと思います。

 その時では間違ったことを言っているかもしれません。やはり大人の言うことのほうが正しいことが多いかもしれません。でもそれが判るのはまだまだ先の話で、今の段階では自分が正しいと思っているのですから、人の忠言を聞き入れる事はできないでしょう。

 しかし子にすれば親のダメ出しが言いたい事の本文ではなく、昔のことを言っても仕方ないって充分にわかっていても、当時の気持ちを表に出して受け入れて欲しいってだけの事で、親を恨むでもなければ仕返しをしたいわけでもありません。

 ただそのように見えてしまう。そのように感じ取ってしまう。それだけのこと。そして自分に対する非難に異常なくらい敏感に反応し怒りを表してしまう。

 思春期に差し掛かった時に大人のモデルが見当たらなかった。これは必ずしも両親がモデルになるわけではないですし、むしろ尊敬する人としてあげられる人を、「両親」と答える数と同じくらいに著名人や歴史の偉人であることから判るように、書物やいろいろな情報媒体から自分が目標とする将来の姿(つまり大人のモデル)を見つける事も珍しくはありません。

 しかし、外の世界に出る第一歩を支えるのはやはり親(特に父性を持った存在)の後姿なのではないか??と思えてなりません。

 よくアイデンティティー形成に失敗したとも言われます。よくわからない言葉ですが妻を見ていると言葉の意味がよく判ります。つまり目標とする大人のモデル(自分の将来)が見当たらず、ましてそのモデルのイメージを自分に取り入れられなかったと言うことでしょう。妻は年齢の早い段階から父親をモデルとすることを諦め、それ故に女性性の獲得にも難ありに見えます。

 摂食障害になったから大人になれなかったのではなく、大人になれなかったので摂食障害になったのではないかな?と感じます。もちろんそれだけが原因ではありません。様々な社会的要因も含んでいると思います。飽くまで私の想像だから的外しな事を言っているかもしれません。

 そして小さい時からの下積みがあってこそ、思春期にアイデンティティーを組み立て始められるのだろうと思いますから、それに取り掛かれないと言う事は、それまでの生活が土台作りに不適切だったとも言えます。

 親の愛情不足だとか、育て方を間違えたとか言われますが、それは親を責めてもその親自身が、その責めを甘んじて受けるだけの精神的成熟に達していない場合が多く、それを未熟だとは言わないまでも非難に対して素直な気持ちでいられる事は稀であるから、両親の姿勢や子供の養育を不足だの間違いだのと直接的な言及は、事を悪化させるだけだからしないだけであって、一般的に言われることは間違いではないと思います。

 そしてそれは人から責められるためにある言葉ではなく、自分自身に対して反省のためにある言葉だろうと思います。
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分析するということ

 河合隼雄の著書の中に、「熟練した心理療法家は自ら身につけた知識や技術から脱することに渾身する」と書かれた一文がありました。これは逆に言えば「初心者は知識や経験を頼りにカウンセリングを行い、また多くの知識技術を得ようとする」ってことでしょうか?

 これはカウンセリングに限ったことではなく、某書籍では己の力を頼みとして生きることの愚かさを説いています。しかし、これには一般常識から外れている感じがしなくもありません。自分の能力で生きていくことが愚かなのか?と。。。

 たぶんこれは自分の能力だけでなく、価値観や善悪や正誤の基準だけを根拠に物事を判断しなさんな、と言っているのでしょう。人の性格はなくて七癖、十人集まれば十人の考え方、まさに十人十色。「人それぞれ」を尊重しなさいって意味だと思います。

 ところで、、、、

 精神科医や心理学者によって書かれた本の中には、人の行動や発言の動機となっている深いところの心理状態を探ろうとする『分析』に重きを置いているものがあります。

 私は分析を邪推とか深読み、勘ぐりと呼ぶのですが、分析とは心の奥底にあるエゴを掘り当てることなのかも知れない、と感じます。そしてそれは金鉱を掘り当てるがごとく偶然ではなく、掘れば大抵ぶつかる岩のようなものなのかもしれません。

 人の行いには確かに身勝手や自己中な気持ちが見え隠れすることがあるかと思います。

 心の病などに関係なく、人とはそんなものなのかもしれません。私もエゴにしたがって行動し言葉を発し生きています。

 特に問題と見なされる行動の原因を探ろうとしている『分析』が多く見られます。アルコール依存とか摂食障害もそうですし、ありとあらゆる『嗜癖』と呼ばれる行為の根底には、幼少期のトラウマとか親からの愛情とか、その親も心に傷を負っている故であるとか、願っても叶わなかった想いなどなど、言いたい放題です。

 報われなかったり傷ついた純粋な気持ちが、長い年月を経ても傷が癒されず、時が経つほどにその気持ちは巨魁と化し屈折し強いエゴや利己心へと様変わりしてしまったような気がします。

 支配欲とかコントロール欲求とかいう言葉をよく見聞きします。精神分析とでも言うのでしょうか?人の心の内を読み取って、行動言動の源を言い当ててしまうような事。その内容というのがなんとも人間として薄汚い物ばかりである気がします。

 いったん、そんなことに気が付いて人の内面を探ることができてしまうと、その腕前はどんどん洗練されていきます。癖のようになってしまい、心の内にある汚い物を目ざとく見つけてしまう人の内面も薄汚いのではないかと思えてなりません。

 そして、内面を探ると言っても、腕前が洗練されていくと言っても、それはそう思い込んでいるだけであって、それが事実である根拠はどこにもありません。人の心を探り本音を読み取っているつもりでも、それは自分の心の反映ではないかと思います。

 嫉妬やねたみの気持ちで占められた人は、たぶん他人の嫉妬やねたみを敏感に感じ取るのではないでしょうか?完璧主義と言っても実際に完璧ではありえず、些細な失敗に腹を立てる人は、また他人の失敗にも寛容になれないと思います。自分の感覚を他人にも当てはめるし、自分の感じているものを他人の中に見出す。『人は自分の映し鏡』といわれる所以だと思います。

 だから初めに言った「身につけた知識や技術から抜け出す」事の大切さとは、この事を指しているのではないかと思います。自分の感覚に固執する事のおろかさを言っているのでしょう。

 これはカウンセリング技術だけを言っているのではないと思います。常に人と関わり続けて生きる事に対しての智慧ではないでしょうか。
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リーダーやムードメーカーのつもりでいるけど実はダメ男

 これは妻が私に言った言葉。これにはかなり傷ついた。確かにそうかもしれない。いい気になって人から重宝がられているだろうと思い込んで、調子に乗っている時は多い。自分が見つめるべき自己の姿とは、自分では判っていないことが多い。人には見えているのだけど、自分には見えていない事が多い。

 しかしこの言葉に「あぁそうだな。」と素直になるのには相当の時間を要した。妻に「人に言える資格ある?」と問い返したかったけど何とか我慢した。妻にその資格がないならば、私にもその資格はない。直球の指摘に対してカチンと来ながらも「はい、そうですね。すみません。」と頷く方が後々の私にとって良いだろうと直感した。

 普段の私は自信なさげで謙虚な事を言うのだけど、それは自分を装飾しての事であり、妻には私の言葉の裏に自惚れを見ているのだろう。人を食ったような高飛車な気持ちが見え透いていて、何かのはずみで出た私の姿は本性がモロ出しになり、そんな時には「ほらやっぱり。」と感じているような気がしてならない。

 最近の私は職場で新たに人の上に立つ立場になった。そして私の心の内では信頼されて皆が私に従い、私が職場のムードメーカーにもなって、日ごろ性格がきつく棘っぽい人でも私がいれば柔らかくなり、私のオーラで雰囲気が浄化されていき、みんなの相談役にもなり、そうやって少しずつ職場環境が良くなっていくだけでなく、そこにいる人達が幸せになっていく、今すぐそうならなくても時間をかけて人が成長していける環境になれば・・・みたいな想像をしないでもない。いや、もっと本音を言うと、そういう事を可能にする自分に酔いたい気持ちのほうが強い。ほとんどヤバイ宗教の指導者である。

 なぜそんなに実力者のつもりでいるのだろうか?自分で馬鹿馬鹿しくなってくる。

 だから「私の精神的な力のおかげで」という重要なポイントがあり、私の力でなかったら意味がない気がする。職場の人のために悩んでいる態度を見せながら、実は自負心が強く苦労人を演じて酔いしれている私を妻は見抜いているのだろう。そしてタイトルの言葉が出たのだろうと思う。

 私の職場はみんな年上でおまけに女性ばかりだ。だから余計に私の独尊的な思考が刺激される。年上の女性からの庇護と賞賛とでも言うのか、幼児期に母親に求めるそれのような、私の本心はそんな欲望があるのだろうか???やばい宗教の指導者が信者の信頼を利用して、女性に対して私欲を満たす行為がテレビなどで明るみに出る、そんなことを思わなくもない。

 リーダー的な立場だって頼られて信望厚く選ばれたのではない。組織の都合上、責任者が必要だから私がなっただけの話である。その話が来たときには「私に役目が務まるか・・・経験も浅いし最年少だし・・・。」なんて謙虚なことを言ったけど、内省や自己分析に凝っている私にはカリスマ的な何かで組織をまとめられる超人的能力を夢想した。この自信はどこから来るのかまったく判らない。

 女性は元々勘が働き、男性より何倍も読みが深く鋭い。そんな中で私が少々知ったかぶって偉いところを見せようとも足元をすくわれるだけだろう。主張すればボロが出る。リーダーになったからと言って私の何が変わるわけでもない。そんな肩書きが付いただけで、私にその能力が身につくわけでもないし、今までと変わらず影の薄い一員であろう。それはそれでいい。

 だとしても、妻を通して知り合いになった男性(妻の紹介で摂食障害の女性と付き合うことになった)や、メンタルな病気を持った女性と結婚しようかどうかと思案している古い友人もいるのだけど、近ごろ私に何も言ってこない。

 かつてこの二人からは、相談と言うほどでもないけど、多少の話をしてくれた時があった。しかしその時の私の反応は良くなかった。その時は彼らの話を聞くよりも、私の話をするほう多く、自己主張しすぎた事を確かに覚えている。なにか教示的なことを言うよりも、私の体験を話したほうが参考になるかと思ったのがその動機だけど、実際は私はこんな経験をしてきて大変な思いだった。と言い続けたのだろう。今はそう理解している。きっと彼らにすればその時に、私では話にならないと感じたのかもしれない。とにかく私は自分の話ばかりするんだろう。自分では判らないけどそう思う。

 機嫌が悪いときにはつまらない事で文句を言うし、嫌味もついつい口から出てくる。気持に余裕がなくなると考え方が否定的になる。そして辛口な事をすぐに言ってしまう。自己主張したい欲が強くなる。そして妻に話すると「まだまだ若いから無理」と簡単に片付けられてしまう。またそれにカチンと来たりする。「じゃお前は何様だ!?」と言い返したくなる。でもカチンとくる一言は正しい。だから「自分は思ったよりも愚かで、他人は思ったよりも賢い。」と母の言葉が頭をよぎる。

 私は事実以上に自分を高く評価しているし、もっと人から評価されたらいいなぁ〜なんて思ってもいる。人から賞賛を浴びたいと思ったりもするし、ぶっちゃけ尊敬されたいって思う。でもいくらそう思っても、どうやらその素質はあまり持ち合わせていないような気がする。回りの反応がそれを如実に語っている。だから私の中には空虚感が付きまとう。

 以前の私なら自分の意見をズバズバ言って気持ちよくなっていた。でも今はそれをすると決まって自己嫌悪する。身の丈に合わない事を口走るからだろうか??

 職場で月に一回会議があるけど、毎度々々同じ事を思う。場を引き締めるような「つまりこれはこういう事でしょう。」みたいな、切り捨てた冷静な結論を言ってしまう。実のところ納得できる結論でもなく、たぶん場を白けさせているのだろう。自分はそんな事に気がついていない。「またやってしまった・・・。」と後悔する。今では人の意見が行き来する場に顔を出すのが苦痛である。自分の嫌なところが見えて仕方がないから。

 人の話に関わると自分論を演説してしまう。だから「人には関心ないですよ。他人なんてどうでもいい。」みたいな事を言ったり、そういう態度をとるようにもなるけど、私の本心は人の相談にのって喜ばれたいとか思ったりする。しかしそれと同時に、人の悩みを解決できる程の知恵も経験もないし、傾聴するだけの器量もない、とも思ったりする。自分の資質のなさを実体験し自己嫌悪するくらいなら、はじめから「人には関心ない」なんて言って距離をあけている方が、自分にも他人にも毒にも薬にもならなくて良いと思っている。そうしか方法がないと諦念すら感じる。

 学生のときはよく「のんき君」なんて言われた。そんな呼ばれ方をするのがなぜか嬉しかった。昔から「角のない柔らかい人」に憧れた。「一緒にいると落ち着く」とも言われた事がある。10代後半〜20代前半までは見せかけだけで、実際その様に思われたし、この頃には恋愛は一大重要事で誰も彼も同じようなことで悩んでいた。お互いに話し相手を必要としていたから、私に話を聞いて欲しい人もいたし、私が誰かに聴いて欲しいと思った。自然と頼り頼られの関係が出来上がった。

 当時の私は割りと相談にのる機会が多かった。と言うより他人のことに首を突っ込んで強引に相談相手になっていたのかもしれない。それを私は「人から悩みを打ち明けられ信頼されている」と勘違いしていたのだろうと今頃になって思う。そして今30代半ば、感覚ではあの頃の「人から信頼されて相談を受ける私」のままのはずなのに、近頃どうもそうではないと感じ始めた。回りの見る目はどんどんと養われ鋭くなっていく。もう何年も前から私の自惚れは人に見抜かれていたのだろうと恥ずかしくなる。
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Tさんから受け取ったもの

 妻がスピリチュアル師匠と崇拝するI氏の下で下で数ヶ月働いた(I氏は果樹園やらレストランを経営している)Tさんと言う妻の友達がいるのですが、その人は私たちが沖縄にいたときに知り合った人で、2年ぶりの再会となりました。

 数ヶ月働いて実家のある関東へ帰る途中で大阪によって、私たちの家に数日間泊まっていきました。その時の彼女の印象は、それ以前に会った時のそれとはまったく違ったものでした。以前は勝気で強気な、簡単に言えばキツイ性格が見え隠れする人だったのですが、すっかり角が取れて落ち着き表情の険も取れてしまったようでした。

 彼女が沖縄でお付き合いしていた関西出身の男性が言っていた「だから関東者は性格がきつい」という言葉ですが、実は関東だからではなく、彼女独自のものだったのではないかな??と感じなくもありませんでした。

 変わり果てたTさんは手の平を広げて「気」だとか「オーラ」だとかを言い出すようになってしまいました。私はそういう系のことにはまったく関がなく、感するような人生訓を聞かせてくれたとしても、オーラとか前世とか言い出すと急に白けてしまう事がそれまでの常でした。

 それはたぶん、それを言い出す人の雰囲気を感じてのことだと思います。いかにも「私はこういう事を信じています。これはすばらしいものです。あなたも信じたらどうですか?」みたいな空気を強烈に発している気がするからだろうと思います。よくは判りませんが、宗教に入れ込んで一生懸命になっている人を、はたから見ている時の気分ってこんなだろうなぁ〜、と感じます。

 Tさんの言い出すことにも幾分「さむ〜」と感じながらも黙って聴いていたのですが、いつもの強烈な拒否反応が出ませんでした。私が沖縄にいた時に勤めていたパン屋のキリスト教の従業員の言うことは、もう聴いてられませんでしたけど、Tさんは何かが違いました。

 これは言葉で説明できるものでもなさそうです。宗教とか精神云々に対して拒否反応を示す時は、誰にでもよくあることだろうと思うので、わざわざ言うことはないでしょうが、そういう事が受け入れられる時の感覚は私にとって初めて事でした。

 彼女が何を教えてくれたわけでもないし、特別なオーラなるものを感じたのでもありません。ただその人柄に接しただけだと思うのですが、あれ以来私は何となくではありますが、自分は変わったなと感じなくもありません。これは飽くまで主観ですから、人が私を見て変わったかどうかを判断できるものではないと思います。自分自身への思い込みとでも言いましょうか、自己肯定感とか自尊みたいな感覚で、何がどうとも理解できるものでもありませんが、何だか判らないけどもTさんから何かを受け取ったような気がしました。

 Tさんからの私に対する押し付けの空気を感じなかったからかもしれませんし、Tさんと話をしていて「話が合う」と感じたからかもしれません。今までTさんを「話の合う人」とは感じたことがなかったのに、正反対の印象を受けるとは、I氏の所でよほどの事があったのだろう、と思っていました。

 そして私も“しらける”だの何だの言いながら、この頃の前後には気とかオーラとは自認していませんでしたけど、『見えないものの力』というか『自分の上にある抗いようのない存在』みたいな、言い方はいろいろあると思いますけど、そんな事を考えるようになっていたのは事実です。

 それこそ「神が・・・天の力が・・・・」みたいな表現にもつながっていくのですが、今までの自分ならば「ばかばかしい」と一蹴してしまっていた事を、当時は自分の考えている事に気づかないながらも、自ら考えるようになっていたようです。

 でもそんな考えって実はとても単純なことで、誰でも意識はしなくても感じていることだろうとも思います。さわやかな緑の中にいると気分が良くなる。きれいな海を見ると表情が明るくなる。要はそういうもんだと、それ程度のことだと思います。

 仰々しい言葉を使うから白けてしまう。日々無意識のうちに感じていることをわざわざ、押し付けのように教え説かれると「NO!」と言いたくなる。私の感覚ではわざわざ人からああだこうだとくどい説明されるのではなく、自分の内側に自然に芽生えた感覚を、静かに育てていきたい、のような気持ちであったと思います。そしてそれを誰に話すこともなく、裸を見られることを恥じるように誰にも知られたくない、と思う気持ちにも似たもののような感覚です。

 Tさんに会う少し前に、渡辺和子や鈴木秀子って人の本を読んでいました。この著者や著書を知っている人ならば、「もう充分にはまってんじゃん」って笑うでしょう。もろ宗教色の強い本であることは間違いありませんし、鈴木秀子はまさに「大宇宙の力」って言っちゃってます。Tさんに会うより前にそういう本を抵抗なく読んでしまってた私にも内側に何かが起こってたのかもしれません。

 結局は苦しんだ末にそっち方面へ行ってしまうのか。と感じることもあります。もう言ってしまいますが、宗教と理学とオカルトは紙一重。ひとまとめにして精神世界。そんなもんだと思います。
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依存の関係

 私には「受け入れる」がどういう事なのか判りません。摂食障害が元で受けた傷が痛くて痛くて、妻を受け入れるどころではないのが、正直な気持ちです。

 同じ摂食障害を持つ妻の友達の話を聞いても、病気の本人よりもその親や彼氏の苦しい気持ちに対して「心中お察し申し上げます」みたいな気持ちになります。

 ついつい、「食べたものがもったいない」と言いたくなるだろうし、少しは家族の気持ちを理解したら?と言いたくなります。でもそれは病気の本人も同じように感じていることだと思います。

 もったいないなんて誰だってわかることだろうし、病気に苦しむ気持ちを少しは理解してくれよ、って思っているだろうと思います。

 私が妻に対して言い聞かせたいことは、妻が私に判って欲しいことでもあるはずです。だからこそ、お互いに苦しい中を生きていると思うから、何もいえなくなってしまう。

 と言うか、苦言を言ってしまう事は立場を変えて見てみると、自分に対するダメ出しであり、「それって自分の事じゃん」と気づかされるのは、自己嫌悪、自己否定に苦しめられることでもあります。

 自己否定とはただ単に「自分はだめな奴」と落ち込んでしまうことではありません。自分を支えているあらゆる価値観、今までのいろいろな経験から学び、自分が正しいと思って考え行動してきた自分の指針、こういう状況ではこんな判断が妥当だろう、この人はこんな事を言うけど自分はどう思うのか?自分がその人の立場ならどう判断するだろうか?

 などなどの自分を生かす全ての判断、そしてその判断に対して正しいと判断する判断。それが価値観で、それが崩れてしまうことこそが、自己否定や自己嫌悪の怖さではないかと思います。

 私たちは摂食障害で苦しんでいる夫婦でしょうか?実のところは夫婦間のパワーゲームに心労している気がしないでもありません。私は「お前のやっていることは間違っている」と妻の目を覚まさせようとしていますし、妻は妻で「自分でもどうにもならない自分を許して受け入れて」と訴えているように見えます。

 お互いがお互いを支配しようとしているのに、その通りにならない事に対して、私は慢性的なイライラを抱え、妻は過食嘔吐の波を上ったり下ったりしています。

 共依存と呼ばれる人間関係の典型のように思えます。なぜ私たちがそんな典型にすっぽりはまってしまったのか、私に何があったのでしょうか?精神医学で共依存と言う言葉がある故に、それが忌み嫌われる人間関係であるかのように錯覚させられてしまいます。

 依存と言うと、ある人や物と自分とのいけない関係のように感じてしまいます。自分のコントロールが効かないその対象に対してわが身を委ねてしまう事が依存であろうかと思いますが、その対象が酒やタバコ、ギャンブルならば話は判りやすいし、のめりこんでしまったら健康や経済状態を悪化させ身の破滅って事はすぐに判ります。だから程々にしたほうがいいと誰でもわかっています。それが出来ないならば一切を断ち切ってしまう事が必要だと判ります。断酒会などがその典型でしょう。

 しかし対人関係の依存となると、どんな人間関係でも持ちつ持たれつで、これを依存と言ってしまうと健康的でない印象が付きまといます。その依存を断ち切ることは到底できませんし、それをやってしまっては人間が人間である所以がなくなってしまいます。人間関係の依存に対して、特にお互いが成長できないと見なされている関係を「共依存」と特別の命名をされているようですが、お互いの意思があり行動があるから「共」がくっついているのであり、人間関係に良し悪しの判断を下せる人間の資質とはいったいなんでしょうか?

 私は私、人は人。そうやってある程度は割り切られる場合ならば苦しむこともないのですが、お互いに濃い感情が行き来する関係では割り切るといっても感情が落ち着かないのも実情です。振り回される感情の荒波に疲れきってしまって、自分と他人を無理に切り離して考えてしまうことは、相手の動向から受ける感情を無視して一方的に自分の平静を保つために見捨ててしまう事と紙一重にもなってしまいます。これをやって続けて『感覚鈍磨』という状態に陥ってしまうことはよく知られています。

 もし見捨てられるだけの強さがあるならば、もし見捨てられるだけの悪や鬼の心が身についているならばこんなにも苦しまない。悪にもなれず鬼にもなれず、かと言って善に徹する忍耐もない。だから苦しい。
 私の微力ではほとんど何もできないに等しい。妻の抱える苦しみを私が身代わりになることはできないし、妻が過去のいつかに受けた心の痛手がどれほどの物かも判らないけども、私は私で妻から受ける影響の下で違う苦しみを感じている。

 時には「お前のせいで」と逆恨みしたくもなり、悪態をつく時ばかりかもしれません。妻が不安にかられて私に助けを求めてくる時に、私はやさしくできない時ばかりで、厳しいことばかり言ってしまいます。

 ふと我に返り自分を省みたときには、自分の言ってしまったこと、また同じ事を繰り返してしまったことを、今までに数え切れないくらい後悔してきました。お互いに傷つけあいながらも、妻は私の至らなさを許せないとしても我慢してくれている。どうして私には我慢ができないのか。どうして妻の不安の訴えを聞いたときに一呼吸おいて落ち着くことができないのか?反射的に自分を守る体勢に入ってしまいます。妻の訴えが耳に入りません。

 何かの本に書いてありました。何らかの意味で自分より下だと見なす人の意見を黙って聞くことは至難の業だと。
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今までのすべてを読んで

 このブログをやめようと思って1ヶ月以上が過ぎました。今までに書き続けたこのブログを読んで、私が伝えたいことは何かが判ってしまったからです。

 −−−− 私は気の進まぬ人と結婚して、こんなにも不幸になった。でも何とか家庭を支えて、妻を支えて一所懸命に生きている。

 私はこんなにも頑張っている。本来なら身近な人に、特に妻にそれをわかって報われたいと思っているけど、どうやらそれは叶わない。妻は私に感謝しているだろうとは思う。しかしどういう訳か私はそれを感じることができない。それは不幸の元が妻だから。

 だからブログで匿名の人から褒められたい。「大変ですね、立派ですね。」と労って欲しい。それらの言葉によって、日々おこる不本意な出来事や無理に無理を重ねる心労が、徒労ではないと感じたい。

 私だけが辛いのではない。妻だけが悪いのではない。私にも悪いところはたくさんあって、自分の中にそれら一つ一つを見つけては、自分の愚かさに気が付いて、自分の罪深さにため息をついて、懺悔をする気持ちでここに書き綴った時期もあった。 −−−

 私は愛してきたつもりでいました。精一杯気遣ってきたつもりでいました。しかし、本当はどうなんだろう?エゴもある。自分の将来に対して思い描く姿もある。妻への想いと私への想いを天秤に掛けて傾くのは、妻への想いであって欲しいけど、実は自分のほうが可愛くて、思いっきり私の側に傾いているのだろうと思います。

 いくら慎み深いことを書いても、それは少ないながらも読み手を意識した文であり、自分を見せる為の虚飾がふんだんに含まれているからです。自分に気がついて改悟を気取っても、匿名のブログ読者を意識しており、心の奥底では『自己洞察を深めて自分は洗練されている』と生意気を言いたくて仕方がありません。

 自分の書いた虚飾を読み返しては酔いしれ、それに賞賛のコメントが付くとますますいい気分になり、私の自己愛は増長するばかりでした。私の意図にまんまと乗って『奥さんを本当に愛して気遣ってらっしゃるのですね。』なんてコメントが付いたときには、「この人は騙されている」といつも感じていました。

 私が妻を愛して気遣っていないから、コメントの言葉が信じられませんでした。こんな自己否定感を埋めて相殺するかのように、「自分は偉い。自分が正しい。」みたいな誇大感も非常に強く、その誇大間の表れがこのブログだと思います。

 誇大感にすがらないと不安でたまらない時ばかりでした。

 好きな人といれば、楽しいしずっと一緒にいたいと思うし、心が晴れ晴れとするし、自分の内にいろんな力が沸いてくる。自然に笑顔になる。

 嫌いな人といると、時間の過ぎるの遅くて、心が荒れてくるし、イライラもするし、自分の力が何かに吸い取られていく感覚になる。笑顔なんて作ろうと思ってもできなくなる。

 自分にとって一番身近な他人、それは家族でも友達でもなく自分。自分の意のままにならない自分。自分にうそをつく自分。自分を苦しめる自分。自分の悪口を言う自分。自分の可能性を閉ざす自分。自分を蔑む自分。

 たぶんこれって嫌いな人といる時の感情と同じなんだろう。

 自分を好きになるというか、自分に優しくなると堕落してしまうと感じている。今の自分を否定して厳しいからこそ、変わっていけるし成長すると思い込んでいる。

 しかし誰かが自分を好きになってくれても、自分が堕落するとは思わない。単純に嬉しい。溺れてしまい身を崩す恋愛もあろうけど、それは別の話。

 誰かを好きになった時は、嫌いだった勉強もなぜだか頑張れた。普段は面倒くさくて嫌々だったことも、なんとなくできてしまった。好きな人が元気ないと力になりたいと思った。

 死ぬまで片時も離れずに一緒にいなくてはならない自分。その自分が嫌いだったら、死ぬまで心は荒れてイライラして笑顔を見せずしかめっ面で、何かに力を吸い取られっぱなし。

 ありのままの自分が嫌いで虚飾してきたのに、そのありのままを好きになるなんてできるのかい。自分を褒めるとか、、、なんだかむなしい。。。

 ジム通いしている友達の話。病み上がりで体力が落ちたから、回復するためにプールを20往復すると決めて泳ぎ始めたけど、15くらいまで来るとやめてプールから上がりたくなる。疲れてきたし体も冷えてきたし、あと5往復がとても辛いと言ってた。

 でもそこで止めたら自分に負けた気がする。負ける自分は許せない。何とかして5往復を泳いだときは気分がよかった。

 達成の快感。マラソンをしてきた私には彼の気持ちが判るけど、彼を笑ってしまった。今日できなくても明日か来週かやればいいじゃんって。
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私も妻も人のせいにする

 過食に使うお金は必要なくなったし、その代わりに電話代が半端なく上がってきているので、妻にあげるお金を減らして電話代の支払いに代えることになりました。

 が、1週間くらい前から妻の過食が復活しました。妻の過食代を減らしたのは1日だけでした。また元の金額に戻して、さらにあがり続ける電話代も結局は妻は何の痛みわけもしてくれません。

 再び過食に転じたわけは、妻の幼馴染との仲たがいに一応の決着がついたからだと思います。その友達についてムカつく事を気が済むまで愚痴りたおし、その幼馴染ともようやく連絡が取れて、思いの丈を一通り伝えられたからでした。

 しかし、これで積年のわだかまりが取れて摂食障害が治る・・・・わけがありません。性的暴力の元彼の一件でも、その時の辛い気持ちが癒されたら治るか・・・・・と願いましたがそうなりませんでした。いろんな人に辛い思い出を聞いてもらったのですが、妻の中では幼馴染も性暴力も一応の解決というか、消化ができたようなのですが病状には変化がありません。

 今度は私が病気の原因だとも言い始めました。これについては、自分は妻の益になっているとは言い切れないので、私のせいにされても否定できないのが辛いのですが。お金が足りないからだとか、私がお金に細かいことを言うからだとか、移り気な感情に振り回されるとか、一通りのことを言われました。

 私は妻にとって怖い存在。これは私の母が旦那(私の父)を怖いと言ったように、兄の嫁さんが旦那をを怖いと言ったように。そして怖いと思わせるタイミングとその状態が、3人の旦那とも同じであることが恐ろしく感じます。

 人は誰でもカチンと来たら急に怖くなるのは当然かもしれません。だからこれを性格上の欠陥とは思いませんが、私の妻は人並みはずれて人の機嫌に左右されるから、私の場合は『それで普通じゃないの?』と簡単に済ますことができません。

 性暴力の元彼のせい、幼馴染の友達のせい、次いで私のせい、たしか一番初めには陸運ドライバーをしていた元々彼のせいとも言っていました。

 人のあり様ばかり見えて自分の姿には盲目なのを承知で言いますが、人のせいにばかりしている気がしてなりません。だからといって妻が自分が悪いと責めるのでもなく、誰が悪いとかの責任の負わせ合いでなく、何が自分の身に降りかかっても、それを払いのけるのは自分以外にない事をいつになったら判ってもらえるのか。

 これって私についてもいえることです。妻のせいとか、日々の苛立つことに意気消沈しているようでは私も妻も同じ穴のムジナです。妻も私も自分と向き合う程に期は熟していないように思いますが、私の改悛の時はいつ来るのか、妻が立ち上がる時はいつだろうと、早くその時が来て欲しいと焦る気持ちも出てきます。
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ボーダー

 「私の拒食の原因はお金だと思う。」私は以前に妻に対して、なぜ食べなくなったのかを訊いた時はそうは答えませんでした。

 「私はこんな病気だから、○(私)の感情が振れると、私の感情も大きく振れる。だから○の事が怖い。○のきつい目つき、不機嫌が表情、とげのある言葉で私は振り回される。私が○を振り回しているんじゃなくて、○が私を振り回しているように思えるときがある。○の不安定な感情はボーダーのようにも思える。

 私の過食は○がくれる金額ではぜんぜん足りないし、過食以外にもお金を使う用事も増えてきたし、少しずつでも貯金したい。でも私の病気はまったく食べないか、思いっきり食べるかのどちらかしかできないから、いったん過食が始まると少しずつの貯金なんて一気になくなってしまう。

 お金がもったいないのは充分わかっている。一ヶ月トータルの金額は普通の主婦なら充分すぎるくらいなのもわかっている。私が病気のために○に重すぎる負担を掛けていることもわかっている。私自身そんな状態が嫌で仕方ないし、病気がにくくて仕方ない。」

 前々から私自分でも薄々気づいていて、私が一緒にいるから病気が良くならないのでは?私の不安定さがあく影響しているのでは?お金に対する執着心、私のお金論を妻に繰り返し聞かせる事が妻を苦しめている、などなどを自分でも考えていましたし、妻にそれらいついて意見を聞こうとしたときもありました。

 妻は私の質問に対して否定しました。私が一緒にいることで非常に助けになっている、お金に細かいことは生活するのに必要なこと。妻はそう言ってきました。

 しかし私が妻に繰り返し伝えたかったのは、過食をするなとか、妻に使うお金がもったいないとかではありません。毎日三千円渡しているのに、出かけるたびに小遣いを別請求して、電話代も三万円を超えるし、これから寒くなっていくから光熱費は倍くらいかかるようになります。せめて日々の細かな節約を心がけて欲しいと言ってきたつもりなのですが、『お前に大金をつぎ込んでいる』と受け取られてきました。

 10月初旬からコタツを出して、朝起きてから寝るまで点けっぱなし、昼寝の時はテレビも照明も点けっぱなし、お風呂に入ったら出るまでシャワーを出しっぱなし。電話は掛け放題。毎日とんかつとか唐揚げの弁当やケーキにシュークリームを過食する。

 それでいて私の食事は100円もしない秋刀魚やインスタントラーメンや卵焼きで、野菜は親にまとめ買いしてもらっている。拒食になってからは、妻が食べないからって、私の食事はますますぞんざいになった。

 妻が汚したトイレも含めて掃除という掃除は私がすべてやって、犬の散歩も行ったか行ってないか判らないし、給餌もきちんとしているのか疑わしい。

 妻は幼馴染の友達が人の善意に対して余りにも無礼だと愛想を尽かしましたが、妻が私に対していることは、その友人と同じだって事をわかっているのでしょうか?それでも私は愛想を尽かさずに耐えている事を判っているのでしょうか?これだけ私の感情が荒れ狂ってしまいそうになっても、今の辛さには何か意味があると信じたいから一緒に暮らしていることを判っているのでしょうか?

 私があれこれしてやっている、一緒にいてやっている、と言っているのはわかっています。でもこれでイライラせずにいられる人が世の中にいるのか?こんなにまで見返りがなくても、それに対して言葉荒く苦情を言うことが妻の病気を悪化させ、心理的に振り回している加害者なのか?こんなにまでいろいろ思うことがあっても、寛容に徹するのが当然でしょうか?

 妻が話してくれたことに対して、私はこれだけのことを言い返したかったのですが、いえませんでした。その時はこれだけのことが言葉で整理できていませんでした。

 私が妻を振りまわしている。妻よりも私が深刻なボーダーだと言われた。摂食障害は私の日ごろの態度が大きく影響している。お金が原因。などなど非常にショックでした。でも冷静に考えたらその通りです。人からアダルトチルドレン(AC)じゃないの?と言われたこともありました。でも私は判っていませんでした。

 自分の行いを反省しその気持ちを伝えたり、ここに書き連ねたのは他人の慰めを得るため。「自分はこんなにも自分ことがわかっている。」と自負する気持ちをひた隠しにしながらも、小出しにして人の賞賛を得るため。自分の身の程を本当に理解して反省したことはありません。

 私の感情が無軌道になるのはほとんどがお金に関係していて、それによって妻を振り回してきました。私は判っていたつもりでもわかっていませんでした。妻からの訴えは確実に私を貫きました。今までのように偽の反省の言葉ではごまかしの利かない事実で、虚栄を振舞うことはできません。

 「私はボーダーで妻を振り回しているから。」と妻に聞かせたとしたら、それは意地悪な当て付けと受け取られるでしょう。私が反省してるつもりであっても。この言葉は私の胸に秘めておきます。
 
 素人がボーダー論を語り判断することは厳に禁ずるべきだと思いますから、私がボーダーであるかどうかはどうでもいい事です。性格上の欠陥のある人として烙印を押すようなことは私はしたくありません。故に妻に対しても病気であると認識に欠け、余りにも普通として見るために、摂食障害が受け入れられないのだとも思います。
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役に立っている証拠 愛されている証拠

 いくら私が頑張って一番のつもり、あるいは一番になりたいと思っても、私は所詮雑多にいる内の一人なんだろうと諦念みたいなものを感じてしまいます。諦念なら諦念でそれに拘りはなくなり楽になれるのだろうとも思いますが、私はまだ一番に拘り続けているので、諦めてはいない気がします。

 自分では拘っているかどうか自覚はありませんが、妻が私以外と楽しそうに笑っている時、私は不要とされている感覚に陥ってしまいます。疎外感かもしれないし、孤独感かもしれないし、拒絶されているような・・・そんな感じを味わいます。

 しかし私だけを頼りにされたのでは、それはそれでたまりません。まったく幼稚と言うか困った性格です。

 妻が男友達とメールや電話をしていても特になんとも思いません。だから異性に対する単純な嫉妬とも違います。家によく遊びに来る妻の友達(♀)とは、仲良くしていても私はなんとも思いません。私もその子との会話を楽しんでいるし、「今後もうちの嫁をよろしくお願いします」のような気分でいます。

 私の価値観を傷つけられるようなと言えばいいのか・・・。私より先行く人への恐怖心とでも言うのでしょうか。妻は病気でしかも大病です。医療は医師に任せるがごとく、私の力だけではどうしようもない事があり、もっと人に委ねる事を知らなければなりません。自分にできる事しかできないのであり、それが私の力なのです。なぜこんな簡単なことが判らないのでしょう。

 妻が私にいろいろと話をして楽しそうにしている時、会話をしている充実感がある時、私はこの上なく幸せです。今までここに書き連ねたたくさんの文章はあまりにも正直で、妻を傷つける事を多く書いているので、実際にこのままを伝えるととんでもない事になるに違いありませんが、ここの私の独り言が妻との会話であればと思うときもあります。

 妻が心酔するスピリチュアル師匠と電話している時、妻は嬉しそうにしています。私にはここ数年見せた事のない笑顔です。体重が3kg増えたと残念そうに言っていますが、実際に残念がっている様子はありません。

 過去の忌まわしい出来事を風呂敷に包み始めているとも言っています。妻は自己表現が苦手です。まして比喩で自分の内面を語るなんて今まで一度も聞いた事がありません。だから「風呂敷に包む」は彼から学んだ表現だと思います。

 私は捨て置かれた気分になりました。妻が彼に染まっていくようにも見えました。これは愚かでしょうが嫉妬だろうと思います。なぜ妻の笑う顔を見て私の感情が揺れるのでしょうか?普段は腹が立って憎くて仕方ない妻なのに、なぜ嫉妬するのでしょうか?妻に対して無感情で無関心ならば何とも思わないはずなのに。スピリチュアル師匠とは、実は60近い年齢で年頃の娘さんがいる父親なのに、なぜそんな人に感情が揺らぐのでしょう?

 私の妄想によって彼のイメージが出来上がり、その彼に思慕する妻の心情を作り上げ、私が見捨てられたと思い込んでいます。私が作り上げた虚構に憂い苦しんでいます。思えば結婚したときから妄想によって苦しんでばかりです。ずっとです。

 しかし妄想だと思っていない時がほとんどで、何一つ確かな事はないのに鋭い直感と思って自分を誇っています。そして結果がわかって、物事を悪く考えすぎた自分をばかばかしく思うのです。想像力が豊かでアホらしくなってきますが、どうせなら想像力と言うからには物事を明るく考えたいものです。私の場合は妄想力です。

 私も実際に彼と話をしてみて、私の抱くような不快感の全くない人柄でした。話の内容、声の大きさやトーン、話す速さ、会話の間(ま)や随所にタイミングよく入る笑い声、妻がスピリチュアルと言うのも無理はありません。静大とでもいうのでしょうか。もしかしたらこれが父性なのかも?とも思います。妻の求める癒しとは彼のような父性なのかもしれません。もし私が彼の立場で人の話を聞くならば、間違いなく皮肉の一つでも、説教のいくつかは言っただろうと思います。

 妻を解きほぐす力を持っているのが彼なのだと思います。私にそれができないのが非常に悔しくて、彼にほぐされて喜んでいる妻の姿を見ると腹立たしくてなりません。

 しかし私に彼ほどの力を求められても与えられるはずはありませんし、できるならばそれができる器量を持っていたいのですが、それには私はまだまだ若すぎます。私はそれをしようと躍起になって、何もかもが上手く行かなくなってしまったのだとため息をつきながら、自分の身の丈と今までの暮らしを思い起こしています。

 私は父性不在の家に育ちました。父親にその力がなかったのではありません。不幸にも仕事のために不在にならざるを得なかったのです。家庭のためにずっと単身赴任に耐えたのは父親の強さだと思います。父親なりにそれで父性を示していたとは思います。ですが私には父性のモデルが不在です。今なればこそ、父の後ろ姿はしっかり見えています。しかし父性が可能にする愛情表現が私には判りません。

 −−−− 残念だけど私は父性を持ち合わせていない。父性を語れる歳でもない。でもだからと言って私は役立たずではない。 −−−−

 この柔軟な考えを身につける事が私の課題なのかもしれません。今更ながらにこんな事を言いますが、私に欠けている事はきっと柔軟さです。妻のためにただ黙って忍耐と我慢だけだと硬直した考えを持っているから、すぐにダメになってしまうのだろうと思います。

 妻との付き合いが始まった時からもう5年でしょうか?私の器量では5年で我慢と忍耐の限界に達してしまうのです。

 スピリチュアル師匠が妻にとっての父性を表しているのかもしれないならば、私にとってもモデルになり得るかもしれません。もしそうならば、彼を忌み嫌うよりも、彼を慕う妻に苛立つよりも、私も彼から教えてもらう事が数知れずあるかもしれません。これは決して決して父親を差し置いて、と言う意味ではありません。

 きっと本当は私は妻が憎いのではなく役に立ちたいのです。そしてその確証が欲しいのだと思います。だからその証拠として妻から気遣いが欲しいとか、感謝の言葉や行動が欲しいと切に切に願うのです。毎日妻に手渡す3千円が惜しくて腹を立てているのではありません。本当に惜しいならば自分で使うに決まっています。

 そのお金が妻の役に立っているのか?妻はそのお金で幸せになれているのか?もしそうならばそうと私に表現して欲しいのです。言葉だけの「ありがとう」のように聞こえて、もらって当然みたいな態度をされるから私の良心を貪っていると感じるのです。役に立っていると感じて安心したいのです。

 これって妻が愛されている証拠を求める欲求と同じでは???

 私が妻の反応を見ようとするから、まして私の望むような反応を見せろと無言で迫っているから、そのように振舞えない妻の態度が『貪っている』と見えてしまうのでしょう。安心して私と一緒に暮らしているならば、それは言葉ではなくても態度と雰囲気で表現するはず。

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人の気持ちが判るということ

 たびたび出てくる妻の元彼Aと妻の友人Aの話。妻がAAの両氏に対する苦情をたくさんの友達に聞かせている姿を見ると、「もういい加減にしたら・・・」みたいな気分になってきます。

 妻の友達に話を聞を聞かせている時には慰めと同情を示しながらも、時にわずかながら苦笑の表情を見せる瞬間もあります。

 今はA子への憤りが大きいのですが、妻の話を聞くほどにA子の無神経さ図々しさ、あつかましさがよくよく伝わってきます。

 A子にすれば妻は面倒見の良い人だから頼り切ってしまって、困った事は全てお任せみたいな気分なのかもしれません。それとも妻が先を読んでヘルプを出してきたのかもしれません。

 私にもそんな感じの友人がいて、その人に任せると手際よくやってくれるので、正直言って楽をさせてもらっています。職場にもやはりこの手の人がいて、職場には「その人に任せたら・・・」みたいな空気があります。

 妻はA子を『人の善意を貪る』と言いますが、A子にはそのつもりは全然ないでしょうし−−−−だから無神経といわれるのでしょうが−−−−妻のA子に対する感情が、私が妻に対して思う事とほぼ同じだとも感じます。妻も私の善意を貪っているつもりはないでしょう。今でも十分に遠慮しているつもりかもしれませんし、当然のことと思っているのかもしれません。本意はわかりません。私の妻に対する感情次第で、妻がどう思っているかを推測するだけです。

 妻の憤りは判らなくもないはずなのですが、私の場合は妻による貪られ感が強いので、妻に対して同情的な感情は持つことができません。本当に私が一方的に与え、妻がもらうばかりではないとは思うのですが、あまりにも私の気持ちを汲み取ってくれない事に対して、寛容な気持ちになる事ができません。私もたぶんあまりにも妻の気持ちを汲み取っていないと思われているでしょう。

 それに私は損得に少々目ざとく、図々しく人の好意に甘えることがあります。図々しさには結構自信がありますので、A子が損得勘定に長けているかどうかは判りませんが、私の立場で考えると、A子の態度が全く理解不可能と言うわけではありませんし、それに対して妻の寛容さに限界が来た事も当然の末路だとも判ります。

 実は一方的に与えるか貰うかだけの関係はないようで、多くの人からまんべんなく少しずつもらう事で満足するか、少しの人から集中的にもらう事で満足するか。どちらにしろ人の善意と恵みなしには生きられないと感じます。

 日ごろの私の態度はあまりにも妻に対して冷酷だと自分でもわかっています。せめて無用の批判や叱責を言わないように黙っているのが精一杯で、妻に対して笑顔を見せる事も、冗談を言う事もできなくなってきています。

 妻に対してこんな態度ではいけないと重々判っているのですが、どうしてもどうしても改める事ができません。一時的に優しくなる事はあるのですが、そんな気分はすぐに吹き飛んでしまいます。自分を刺激しないように、刺激されないように静かに生活しているのですが、たぶんそれはあまりにも静か過ぎる嵐の前のような気もします。

 今までにも何度が感情が爆発した事があったのですが、いつか本当に本当にコントロールと失ってしまう時が来るような気がして、その時には自分でも何をやらかしてしまうか判らなくて恐ろしくなる時があります。

 こんな私ですから親が子を虐待する気持ちが薄々判ったり、自分をどうしようもできなくなって犯罪に奔る人の気持ちも理解不能ではありません。もちろん妻を殴る旦那の気持ちは手に取るように判ります。
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