デコボコ上等

小学生のときにコンパスの針を自分に刺した。少しだけだったけど。

「長い間お世話になりました」て書き置きをテーブルに残した。どこにも行かなかったけど。

厳しく怒られると気を失って倒れた。いつもってわけじゃないけど。

誰もいない家の一室で家族の帰りを寂しく待っていた。毎日じゃないけど。

そして兄に犯された。お互い男だけど。

悪いことを思い出せばきりがない。

今の時代、満たされなければならない、みたいな感がある。

まさに円満という言葉がそのまま当てはまるような。

円く満たされてこそ幸せと言うような。

欠けた部分は埋めなければいけない。

病院に通って、カウンセリングを受けて、同じく苦しむ人たちと語り合って。

傷をそのままにしていては人生を狂わせる、とでも言いたげに。

円く満たされた人なんているものか。

みんなデコボコで懸命に生きている。

それじゃいけないのか?

それは不幸な姿なのか?きっとそうじゃない。

できれば円いほうがいい。

でも生きるって事はいろんな所にぶつけてデコボコになる事。

自分のデコボコを嘆く。自分より円い人を嫉む。デコボコの原因を恨む。

それこそが不幸なのか。人間の罪かもしれない。

罪と判っていてもそうしかできない時もある。あってもいい。

一周回るのに一苦労するような、

もしかしたら押しても引いても動かないようなデコボコかもしれない。

それでもいい。誇れ。形のいびつさを。こんなに酷くぶつけたことを。
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(0)

自己流で

 私が疲れて見えるのは、私の内側にある荒れる感情をやりくりする事に、一日の力のほとんどを使ってしまうからです。

 「疲れないためには無理をしない」といわれたことがありますが、では無理をしないとは何だろうか?と考え込んでしまい何も思い浮かびません。究極を言えば私にとっては妻との生活それだけで無理を強いられています。感情のままの行動をとることでしょうか?と極端なことを考えてしまいます。『無理しない=自制しない』を意味するのでしょうか?たぶんそんなわけはありません。

 自制しないと無軌道な自分になってしまうと感じるならば、無理しない前に取り組むことがあるようにも思えます。

 無理をするのは「こうしなければいけない」と思うことがあるからです。今までに何度も繰り返し思ったことです。寛容になりたいと思うのにそうなれないのは、きっと寛容であっては不都合が起こる何かの理由があるからかな?とも感じています。

 私は本当に寛容になりたいのか?先日ある人から言われたように、本当に人を助ける役なのか?そう思うことは嬉しいけど、実際は人を助けたいと思うのではなく、人の賞賛を集めたいから、尊敬されたいから、好かれたいからで、本当の狙いは別にあるからいつまで経っても寛容になれないのかな?とも感じます。

 そもそも自分に対しても「○○であるべきだ。××でなければいけない。」と思う気持ちが大きいから、自分に対して寛容ではないので、人に対して寛容であることはひとまずありえません。

 受け入れるとか、あるがままとか、自分に優しくとか、結局は何のことかわからない言葉が多くありますが、今の私にも判るのは『自分の悪口を言わない。自分を叱責しない。』ことだろうと思います。

 つまり「○○であるべきだ。××でなければいけない。」をやめるって事です。最低限これくらいは・・・、と思うことが『べき』であり『なければならない』のつもりなのですが、自分に対してはそれでよくても、他人に対してはハードルの高さは人それぞれなので、私にはこれくらいと思うことでも、人には「こんなにも!」と感じることがあるかもしれません。

 それと、自己否定感情をあおるようなことを考えないということです。今の自分を良しとせず、卑下し嫌悪する姿勢は、自分には向上のための動機という立派な正義です。それに「なければならない。であるべき。」と生き方に厳しいのは、よき人生に対して貪欲なのだろうとは思いますが、たぶん他人の目にはガツガツし肩に力の入った姿で見苦しい自己劣等感であろうとおもいます。

 人の目を気にしているわけではありませんが、客観的な判断というのはほとんどの場合、自分の判断より正しい気がします。ごく当たり前のことなのですが、こういう事を身をもってい理解することがなかなかできません。

 妻の過食嘔吐にしても、「何をそんなに焦っているのか、なぜガツガツするのか。」と感じます。愛情が足りないとか、孤独の病気とか一般的に言われますが、友達がたくさんいて優しい両親がすぐ近くにいるのに、なぜ愛情が足りなくて孤独なのか?と疑問を感じるように、私の姿も「なぜそんなにもまで卑下して自分を陥れるのか?」と思わなくもありません。

 自分に必要な栄養は当然のことをしていれば自然と身につくように、ガツガツしなくても自然な望みなら自然に欲すれば自然に身につくのかもしれません。

 そんな甘いもんじゃないっすか??

 自分をほめることが苦手な人は、人をほめることも苦手なはずです。抵抗感があったり恥ずかしかったり、褒めるには値しないとハードルを高く設定したり。愚かな自分に対して「自分の○○な所は偉い」とはどうしても思えません。自己嫌悪の塊なのに自分の好きな所なんか、口に出すのも心に思うのもばかばかしく思います。

 ならば自分の好きな所ではなく、『自分の好きな事、物、場所』ならばどうだろう?それならば抵抗なく口に出せますし、それを心に留めておく事で自分の適正というか嗜好というかを受け入れる事になっていくのではないでしょうか?そして行く行くは自分の内面で好きな所という考え方にも発展していくかも知れません。

 なんでこんな回りくどい事をせなあかんのでしょう?私の自己否定感ってそんなに根深かったのでしょうか?
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(0)

恥ずかしいけど実はこんな事を願う

人は傷つかないために

困難にぶつからないために

逃げと狡猾さを身に付ける

そしてそれを要領と智慧と呼び

世の中を強く生きていく

もしそうならば

私は強くなりたくない

丸腰で歩んで生きたい

転ばぬ先の杖はいらない

転ぶときには転び

傷に倒れ怒り悲しみに涙する泣き虫でいたい

暗闇におびえ足が先に進まぬ臆病者でいたい

岐路に迷い右往左往する愚か者でいたい

人の心無い刃に傷つく弱虫でいたい

些細なことで心煽られる私でいたい

今まさに私のそばで倒れんとする人と共に倒れたい

苦悶し嘆いても生きつづける私になりたい

それでも世に華ありと謳いたい
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(0)

「良くできた旦那」と言われるその裏は

 妻の摂食障害に対して、私は何も特別な事はできませんし、何ができるかがわかりません。今までどうやってきたかも判りません。辛いときは妻を蔑んできました恨みもしましたし、嘆きもしました。諦めもしました。自己放棄もしました。

 妻を凍りつかせるような言葉の攻撃は、気を付けているつもりですが、未だに続いていると思います。私は自身の変化も達成感も目安も何もありませんから、5年前と何も変わっていない気がします。この5年間、この気持ちとどう過ごしてきたのかすら判りません。

 荒れていく私、夫婦間における道徳心を失っていったのは私のほうでした。それでも私を見捨てなかったのは妻でした。私は一緒には暮らしていたものの、完全に妻を見捨てていました。私の精神の平静を維持するためには、その目的のために役に立たないものは、価値がないと見なしました。妻の言動に対して私の感情が動かされては、平静が乱されてしまうのです。

 妻が摂食障害である所以、見捨てられ恐怖や依存的性格が私を離さなかった、と言えばその通りかもしれませんが、私の度重なる攻撃に耐え、かつ私に牙を剥き返すことなく、一緒にいたいと望み続けたのは妻の強さだったと思います。

 私が妻に見た漠然とした敵意、蔑みはこれからも感じるかもしれません。しかしそれに囚われる事は少なくなっていくと思います。私は何か特別な事をしたくても、できないほどの無力ですから、時には妻をイラッとさせるでしょうし、蔑みたくなるような愚かさ卑しさを見せるだろうと思います。

 しかし妻の精神性はそれらによって私に諦念を抱く事はないと思っています。妻にはある意味で崇高さを感じる時もあります。そして私は妻のその寛容さによって許されていると感じています。

 私がその許しに安楽するつもりはありませんし、自らの愚鈍さを開き直るわけでもありません。私の内面は色々と手直しが必要ですが、現在を決して否定しないのが妻であると思います。

 妻はよく言います「一緒にいてくれてありがとう。」と。かつての私ならば「その通り。何もかも犠牲にして一緒にいてやっている。礼の言葉だけでは全く足りない。」と、妻の感謝の言葉にすら憤慨していました。しかし今は素直に言えるようになりました。「一緒にいさせてもらってるのは私のほう。」と。

 もし私の存在が感謝に値するのであれば、私をそういう人に変えてくれたのは妻であり、妻には人に寄り添い、人を育てる才能があるように思えます。今の私たちの関係は、5年に及ぶ妻の導きによるものとも思えます。もちろん妻に全てを任せて、私は何もしなかったわけではありません。私も私なりに何かをしてきたつもりでいます。それでもなお、私の不足を補ってきたのは妻だと思っています。

 私は摂食障害を持った妻の救済者のつもりでいた時期がありました。しかし思ったことが思い通りにならない苛立ちと、救済の志を達成できなかった不甲斐なさ、そして私の働きかけに共鳴してくれない妻への怒り。

 『妻のため』という善意の働きかけではなく、救済者のつもりでるからには、紆余曲折しながらも私が妻の病気を治し、私を命の恩人だと感謝する、という結末を迎えることになっていて、私の自己愛を助長するサクセスストーリー(私はやっぱり立派だと再確認できる筋書き)に協力してくれなかった妻への怒り。そんなことの連続で、救済なんてほんの少しでもできた手ごたえがありませんでした。仕方なしにその立場は降りたのですが、その時は敗北感で満たされていました。

 その時期に、努力の限りを尽くしてもどうにもならない事がある、と気づき始めました。しかしそれを自覚するまでに長い長い時間がかかりました。努力したが挫折した、努力しないならば放棄するしかない、としか思えなかった当時の私は、努力以上の手段はないと思い、それは自分では成す術がないと思い知らされることであり、手足を奪われる感覚にも似ているだろうと大げさに考えていました。

 それでもなお、摂食障害の妻と一緒に暮らす悩み多き夫という、非凡な立場である事に特権意識みたいなものを持っていました。今でもそれは変わりません。挫折を味わい荒れてもなお、それでも諦めずに逆境に耐える事が私の美徳と謳い、「だから私は立派だ」とその味を噛み締める事や、「私は苦境に耐えている」とか「病気の人と望みもしない結婚で不幸まみれ」と吹聴して回り同情を得る事が、努力の次に私にできる事でした。

 「よくできた旦那、優しい夫」といわれる事が時々ありましたが、それは他人が「私は立派だ」と証明してくれる事になるので、非常に優越感がありました。今でもそう言われる事に快感があります。しかし悩み多き夫婦なんて世の中にざらにいますし、夫婦でなくても人それぞれ、ほぼ一人残らず悩みに付きまとわれています。私だけが非凡な悩みを持って、特別な逆境を耐えていると考えることは、思い上がりでしかないと、ようやく冷静になってきた気がします。それでも「自分はほんの僅かでも人を抜いている」と思っている節は大いにあります。

 密な関係にある一人の人間との付き合いにいろいろつまずく事が多いのであって、『摂食障害だから』という問題はおまけ程度に過ぎないとも思えます。そして重要な事は、今後もし妻の病気が快方に向かうにつれて、私の内面にある人格上の問題がますます露顕すると予感しています。

 妻との取り組みの中で、自分の姿が見えなかったから、あるいは自分の姿を見ないで済むように、妻に問題を転嫁してきたから、苦しいだの何だの言っても、結局は人のせいにして楽をしていた気がします。だから「病気さえ治ったらすべてがよくなる」と願う事柄は、おおむね幻想だと認めています。

 妻が最近、方々で私の話をして褒めちぎっているようです。そして私に「『優しい旦那』と言ってくれた。」と聞かせてくれます。妻の既婚の友達は、夫の悪口を並べているのに、妻は幸せだと言うそうです。それに対して「よくできた旦那」と羨ましがられるといいます。私はそれを聞くと内心穏やかでいられないのですが、謙遜しつつも素直にその言葉を受け取って喜ぶ事にしています。

 「料理ができる旦那がうらやましい」と言われることが多いそうですが、私は仕事でそれが必要とされているからでもあり、親の教育がそうでもあったからであり、得意なわけではありません。友人が羨ましがる『料理ができる旦那』によって、妻が嫌な思いをさせられた事は多くあります。それでも無邪気に喜ぶ妻が健気にも思えますし、痛々しくも思えます。

 妻は実家を離れたことがなく、婚前に花嫁修業もせずに私と結婚しました。そんな妻が作った料理を、私がいつでも喜んで食べるわけではありません。妻は元来ちょっとした事でも傷つく性格です。そして私は棘のある言葉を平気で言う性格です。

 だから私が優しい良くできた旦那なのではなく、友人の旦那がダメなのでもありません。妻が私のほんのわずかにある、まぁまぁ良い部分を最大限に引き伸ばそうと無言の努力を重ねてくれているからです。それに既婚の友人たちも愚痴って楽しんでいるだけだと思います。

 妻が私を良く評価し、友人がそれを聞いて白けることなく、羨ましいと思ってくれる事に対して、頭を下げて感謝したいと思うばかりです。

 私がこんな風に前向きな事を考えられるのは、今は妻の調子が良く、それによって私も機嫌良く生活できているからです。

 今まで全ては私の思い違いと自惚れでした。私は特別でも非凡でもありませんし、まして以前に感じていたような特権も何もありません。艱難を乗り越える強さなんて、私にあるとは思えませんし、いつくじけるか明日すら予測できません。

 私に特権があるならば、いつも私に感謝してくれて私のために努力を重ねてくれる妻の存在であり、その妻がいてくれるという境遇は非凡そのものだと思います。
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(2)

傷に貼るバンドエイド

私が休みの日に派遣のバイトに行ったのは、収入を増やしたいからでした。出勤までの数時間に洗濯して掃除したのは、清潔にしたいからでした。休みの日に手の込んだ料理を作ったのは、美味しい物を食べたいからでした。引越しを繰り返したのは妻にとって良い環境で暮らすためでした。

 心のうちに秘めていた悪意を打ち消すために、私は自分にそう言い聞かせて自分の本心を聴こうとしませんでした。

>>傷に貼るバンドエイドの続きを読む
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(3)

アフィリエイトはしない事をここに宣言します その2

 『それでも吐き続けた私』という本が、今までと違った印象を持った理由は、色々な試みを経て自己表現というか、感情を表す方法を得る過程が共感できるような気がしたからと思います。

>>アフィリエイトはしない事をここに宣言します その2の続きを読む
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(0)

アフィリエイトはしない事をここに宣言します その1

 今まで摂食障害の本人が書いた本を幾つか読んだ事がありますが、いつも後味の悪い思いをしました。

 なぜかと言うと、食べ吐きを繰り返し、止めたくても止められない辛さを延々とつづった文章に苛立ちを感じたからです。同じことを繰り返す妻に対して感じたことを、本の著者にも感じたからと思います。

 周りの人の事を全然判ってないかのようにも受け取れる、摂食障害本人の独りよがりな『自分ばっかりああだこうだ』と延々と続く嘆きが読んでいられなくさせた本もありました。

>>アフィリエイトはしない事をここに宣言します その1の続きを読む
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(0)

過食のコストパフォーマンス

 他の摂食障害の人達が、どれくらいの過食嘔吐をしているのか全然判りませんが、ネットを徘徊しているとそこそこの情報が入ってきます。

 家が建つくらいの金額を過食につぎ込んだって話も聞きますし、週末に集中的に過食嘔吐をするって話も聞きます。

>>過食のコストパフォーマンスの続きを読む
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(3)

ずっと一緒の意味

 「○○(私のこと)がいないと寂しい。ずっと一緒にいて欲しい。」

 妻にこれを言われると「あなたがいないと生きていけない」と訴えられている気がして、非常に気が重くなります。私の周りに鎖が巻きつけられるような錯覚すらします。

>>ずっと一緒の意味の続きを読む
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(2)

パートのおばちゃん

 昨日、職場の研修がありました。その会場までの移動中に、一緒にいたおばちゃんの職員と話をしていました。

 「もうすぐ一年になるけど、やっぱりこの仕事は難しいと思う。利用者同士のもめ事やケンカがある度に、『またか』と思ってイラッとするしキツイ言葉で怒ってしまう。こういうやり方は良くないって判っているけど、かと言ってどうしたらいいのか判らない。言ってしまってからいつも『あっ』て気がつくけど、また同じ事をくりかえしてしまう。」

 おばちゃんが言った言葉です。

>>パートのおばちゃんの続きを読む
  1. ちょっと余談
  2. TB(0)
  3. CM(0)
次のページ